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人違い/町田康

【第59話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 保下田の久六は最終的に一の宮多左衛門と和解した。
 和解と言うと、裁判所で裁判官に決めてもらったように聞こえるが、当然、そんなことではなく、大きい宿屋を借り切って、仲裁人が間に入り、方々の親分が証人として集まり、盃ごとをして、向後は争わないことを誓約する。
 もしこの誓いを破ったら、その時は集まった親分全員が敵となるのである。
 次郞長は安政三年正月に行われたこの手打ち式に、久六側の付添として列席した。

 そして手打ち式が終わったらもう尾張に用はない。久六は次郞長に、
「次郎、今度ばかりはふんとに世話になったなー。その礼と言っちゃナンだが、いつまでも俺ン家でゆっくりしていってくんねぇな」
 と言うと次郞長は信じていた。ところが言わない。
 言わないどころか、「もう手打ちができて喧嘩もなくなったんだから早く帰ってくれ」みたいな態度を取っているように次郞長には感じられた。
 なんだ、てめぇはよ。俺はてめぇの身を案じて、てめぇに大きな親分になって欲しくて、その一心で精鋭部隊を引き連れてやってきたんじゃネーカ。もうちょっと感謝しても罰は当たらネーだろうが。
 次郞長は心のなかでそんなことを思う。強く思う。
 だが、俺は男だ。男稼業だ。万(よろず)、あっさり、さっぱりしてなくちゃなんねぇ。ここは一番、顔で笑って心で泣いて、あっさり発ってやろうじゃネーカ、と、未練な素振りは露ほどにも見せず、
「じゃ、保下田の、俺たちゃ、行くぜ」
 と言って、手打ち式の明くる日には保下田村を発ち、東海道を東へ向かったのであった。
 しかし次郞長は暗い。始終、俯いて歩いている。
 そんな次郞長の心を知ってか知らずか、乾分頭の大政が、
「いやー、よかった。これでもう一の宮の野郎も久六どんに手を出さねぇ」
 と誰に言うともなしに言うと、これを受けて相撲常が、
「けんど、折角、出張ってったのに、喧嘩をしねぇで帰るってぇのも、肩透かしを食らったようだ。おらー、喧嘩がしたかったぜ」
 と言う。
「なにを言ってやがんデイ。てめぇっちは喧嘩っぱやくていけネー。喧嘩なんてのはしネーならしネーに越したこたあネーのよ」
「ちげーねー」
「げらげらげらげら」
「げらげらげらげら」
 と一同、大笑いになった。
 次郞長はたいしておもしろくないことで大笑いしている乾分たちに、なにか物足りなさを覚え、そうすると機知に富んだ久六と会話を交わした日々が、いっそう懐かしく思え、心に無限の寂しさを覚えた。

 そうこうするうちにも道中は捗って、知立を過ぎて、もう少しで岡崎、というところに差し掛かった。
 と、その時である。向こうの方から、道中合羽に三度笠、長脇差を腰にぶちこんだ男、二十人ばかりが、ざっざっざっ、と歩いてくる。
 どこからどう見ても次郞長たちと同商売、旅のヤクザである。
 となればヤクザ社会の仕来りに則って挨拶をしなければならない。そこで、すれ違いざま、先頭に居た相撲常が、
「お友達さんでござんすか」
 と声をかけた。然うしたところ、向こうはいきなり刀を抜いて、
「てめぇたちゃ、赤鬼の金平の仲間だな」
 と言ってきた。
 赤鬼の金平というのは、伊豆の下田のヤクザで、大場の久八さんの盃を貰って一帯では大した勢力だった。喧嘩に滅法強く、久八さんの威勢を背景に力づくで縄張りを広げてきた武闘派である。
 だからその名前を聞いた瞬間、次郞長は、今、なにが起きているかを悟った、つまりは人違い。次郞長は、
 おそらく喧嘩っ早い赤鬼とその一味は、どこかの親分と喧嘩になり、久六が俺に頼んだのと同じように、その盟友に腕貸しを頼んだ。俺たちはその腕貸しに間違えられたのだろう。
 と理解した。
 そこで次郞長は前に進み出て笠を取り、そして、
「おいっ、間違えるな。こっちの顔をよく拝みやがれ」
 と言って顔をグングン近づけた。ところが向こうは聞かず、
「やかましいやい。カス野郎」
 と罵倒してきた。
 これを聞いて次郞長の頭脳の線がプツンと切れた。次郞長、
「てめぇ、どこの虫ケラだ。俺を舐めたら承知しねぇぞ。ひとり残らずぶち殺してやる」
 と喝叫するや、刀を抜いて、これを振りかざした。勿論、これを見た乾分たちも、被っていた笠をパアッと放って、ずらっ、と刀を抜く。
 そうしたところ相手はその勢いに押されて、刀を構えた侭、屁ひり腰でジワジワ退っていったが、やがて、まるで天竺鼠のようにひとッ塊になると、懐から十手を取り出し、捕縄をかざして、
「手向かうな。神妙にしろ」
 と、その正体を明らかにした。
 なんと、彼奴らはヤクザに扮した捕り手であったのである。
 相手がヤクザなら喧嘩もするが、お上に刃向かって勝てる訳がなく、恐れ入るか、逃げるか、しかない。
 マアしかし、身に覚えのある事なら恐れ入りもするが、人間違いで牢に入れられたんじゃ間尺に合わない。
 そこで次郞長たち、「逃げろっ」てんで踵を返して、西へ奔った。
 元来た方向へ走って逃げたのである。

 散々に駆けて、どっかの村はずれから、山の斜面を登って見晴らしのよいところに倒れ込んだ。
「ハアハアハアッ、どうだ、連中、追っかけてくるか」
「いや、こねぇようだ」
「そうか、そらよかった。けど、連中、なんだっておいらを捕まえようとしたんだ」
 と次郞長は訝った。心当たりがまったくなかったからである。

 その後、明らかになったのは、やはり人違いであったと云うことでこの数日前、赤鬼の金平は伊勢の大親分、丹波屋伝兵衛の乾分、金五郎、安太郎ほか数名とともに遠州・秋葉山に居たが、この時、金平は土地の下役人に屈辱的なことを言われた。
 屈辱的なことを言われたとはいえ、そして下役とはいえ、相手は役人だ。我慢するより他ない。だが短気な金平はこれを斬って逃げた。
 となるとサア大変だ。
 ヤクザ同士の喧嘩で斬ったの殺めただのというのとは違って、相手はお上である。
「なにをおいても之を捕うべし」
 ということになって街道の詮議がきわめて厳しくなった。
 そこへ旅支度でノコノコ通りがかったのが清水一家のご一行様だった、という訳である。

 そんな事情を、この時点で次郞長たちはまだ知らなかったが、なにしろ手向かいをして、確か殺しはしなかったが、向こうも怪我はしているだろうし、それをよりなにより、「よく、拝みやがれ」と笠を取って顔をグングン近づけた。
 顔を覚えられてしまっているのである。
「東海道は危ないな。いっそ甲州へ行くか」
 そう言う次郞長に大政は言った。
「甲州に行く当てがありますか」
「それがねぇんだよ」
「だったら親分、舟で伊勢へ渡りましょうぜ」
「おー、そらいいな。伊勢小幡の武蔵屋周太郎たあ親戚同士だ。あすこン家へ行って世話になろう」
 と云うので一行、宮宿から桑名宿まで海路七里、渡し船にて伊勢に渡って武蔵屋周太郎の家に草鞋を脱いだ。続く。

町田康(まちだ・こう)
1962年生まれ。81年から歌手として活動、96年以降は小説家としても活動。主な著書に「告白」「ギケイキ」などがある。


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