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【その4】ヨガと出会う

そしてその頃、ヨガに出会った。
幼少時からなぜか仏教や仏像や東洋思想的なものに惹かれていたこともあって、「魂と体の浄化」というコンセプトに興味を持った。インターネットで調べたら、通勤定期で通えるところにインターナショナルヨガセンターの九段下スタジオがあることを知り、思い切って行ってみた。
静まり返ったスタジオ、よくわからないお経のようなマントラ、規則的な呼吸音、インストラクターの方のポーズを真似するというより、決まっている動きを次々に淡々と行う生徒さんたちの雰囲気に心を持っていかれた。よくわからないままに60分見よう見真似でヨガのポーズを取って、もうバテバテの汗ダクダクで終わった。

終わったあと床に寝転がって休んでる間、これまでに体験したことがないくらいの気持ち良さを体感していた。なんなの、これ!?私が欲しかったものが全部入っている!尋常じゃない汗をかいてエクササイズ要素もあるし、心も静かになって、なんだか体がひとまわりコンパクトになった気もする。インストラクターの方が「自分の中にある静けさを感じて」と言っていた意味がちょっとなんか分かる!憧れの修行的だわ!哲学的だわ!私が求めていたものだわ!と、興奮したのを覚えている。

確か私はそのとき30歳ぐらい、そこから約17年、ヨガの世界が私の世界の中心になって、頭と行動と欲求がチグハグしている中で「本質の追求、憧れ」が私のメインテーマになっていく。

週末や仕事終わりにヨガに通う日々が続き、ヨガ仲間ができ始め、練習後に語らうことが増えた。そのうち始発電車でヨガスタジオに行き、練習をしてから出勤するようになった。仕事も楽しいし、ヨガの練習もますますに楽しく、どんどんのめり込んでいった。

ヨガの練習ができて体が軽い日はgood dayで、朝起きれなかったり、体が重い日はbad dayだった。朝の練習に響かないように夜ご飯を調整し、動物性のものや、太りそうなもの、体に悪そうなものはどんどん排除していった。とにかくヨガの練習に響くと思っているから、便通が悪くなることが恐怖だった。体が重くなることが恐怖だった。太ることが高校3年生のあの頃からずっと恐怖だったから、600ml入るタンブラーにブラックコーヒーを入れてスタジオに着くまでの空きっ腹に流し込み、お腹が痛くなってトイレにいってスッキリすることが私にとってはマストだった。そして毎日だいたい筋肉痛状態だった。身体が痛くて怠けたくなる自分が本当に嫌いだった。その頃は私の克服すべき課題だと思っていたし、私の芯の弱さだと認識していた。練習を重ねればきっと身体が楽になる。自分との闘いに負ける訳にはいかないし、頑張れない自分ではいたくなかった。私には力があるんだから、それを証明しないといけない。馬鹿にされたくない。大好きなヨガの先生や先輩のように本質がわかっている人になりたかった。下らない人間にはなりたくなかった。煩悩を減らし、心は穏やかで真理を見極める人に近づきたかった。マントラもたくさん覚えて、毎日のように唱えた。サンスクリット語の発音も練習して、小さい祭壇を作って、祈る時間を作った。切り詰めた中でオーガニックの野菜を買い、食品添加物を摂らないようにした。ファストフードには行かず、身体に優しいものを選んだ。肉を避け、冷凍食品は絶対に使わないと決めていた。

同時にヨガの練習や祈る時間がゆっくり取れない時は落ち込んだりイライラし、洗った食器が水切りかごから崩れただけで泣きたくなった。
夫の優しさはその頃のわたしには優柔不断さに感じ、ヘラヘラ笑っている顔にイライラした。この人はきっと5年後も変わらない。変わらないことをよしとしているんだろう。愛してると言っているが、私といて本当に幸せなのだろうか。いつも私が尻を叩くように鼓舞しているこの関係性はいつまで続くんだろう。いつまでこのぬるま湯感が続くんだろう。私の心の練習が足りないから、私がまだ人間的に未熟だからイライラが起こるのかな。頑張ろう。諦めたくない。そんな風にヨガの練習に何かを見出そうとしていた。

次に続く。

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