自叙伝なんで書いてるの?
人生のあまりに多くの無駄のように思える時間を使って、一周回って行き着いた先は、あまりにシンプルなことでした。
わたしには「わたし」がいる
わたしには「わたし」しかいない
わたし以外の誰かや何かは「わたし」ではない
未来はことごとく、いつだって予想と違う。
ならば、限りなく自由に、やりたいようにやればいいじゃないか。何を感じようと、考えようと、しようとも、大丈夫なのだから!!!!
飛び込んで怪我しようが、しんどかろうが、大丈夫なのだから!!!!!!
そうだよね、それしかないよね、と今なら完全に即答ですが、自意識という箱の中にすっぽり入っていたその頃の私には、分かりませんでした。正確にいうと頭の中の知識としては分かっていましたが、体感としてはちっとも分かっていませんでした。そして自分を無視してきた時間があまりに長く、その箱の中の環境に慣れてしまっていました。
いま思えば、わたし自身にわたしが雑に扱われてきた溜まりにたまった怒りや悔しさやるせなさとともに、もううんざりだ!全部もうやめよう!!うぉーーーーー!と、ついに決めたあの時、何かが動き出したのだと思います。
「わたし」を見ようとした時、「わたし」とピッタリくっついていたら見えないんです。「わたし」から離れないと、その声は聞こえないんです。「わたし」から離れないと、触れることができないんです。
「わたし」に何をさせてあげたい?
「わたし」は何を感じてる?
「わたし」に余計な手は貸さず、そしてガミガミと口出しせずに、見守ってあげている?
傍目に見ている自分がそこにいさえすれば、
自分がそれを知ってさえいれば、私たちは誰もが(本当に地球上のひとり残らず誰もが)自分という「わたし」にいい思いを、喜ぶことを、嬉しいことを、思いっきり、誰に遠慮することもなく、させてあげたいと思う地球上の動物なのではないかと思うのです。
だから、今、人生に問題があると思っている人も、人生うまくいかないと思っている人も、あの人より劣っている、負けたくない、自分って腐ったみかんだな、こんなもんさ人生は、って思っている人も、自分をついイビってしまう人も、ダメ出しばかりしてしまう人も、自分の嫌いなところが変わらないと人生も変わらない、
(以上、全部あたいのこと)そんな風に思っている「わたし」をいま試しに傍目にみてみたら、どんな感じがしますか?そしてどんな気分になりますか?
ある時わたしはわたしを傍目にみてみたら、
とっても悲しくなりました。わたしがあまりにかわいそうになりました。不憫になりました。あぁ、あたしよ、ごめんね。しんどかったよね。いま言えることは、どんなあたしであっても愛してる。だからさ、好きにしたらいいよ。思いっきりやったらいいよ。怪我したらいいよ。毎日機嫌よくいたらいいよ。ダサくてもいいよ。それもひっくるめてオモロいよ。喜劇だよ。最高よ。
そんな風に感じて、わたしはわたしに毎日声をかけ、空をみても、海をみても、ごはんを食べていても、何をしていても、何かを取り戻すかのように、しばらくよく泣いていました。
そんな風に自分を傍目に見ることに慣れてきていた今だから、自叙伝を書けたんだと思います。赤裸々に人生をオープンにすることが目的なのではなく、そして意味があるわけではなく、(意味を感じてもいい)「わたし」を傍目にみたらどんな人生がここまで繋いできてくれたのか、一回記憶の中にあることを取り出してみただけなのです。
そして、自叙伝を一ヶ月ほどかけて書き、ビビりながら、チビりそうになりながら、公表してみたら見えた景色がありました。見えたビジョンがありました。それはまた別の機会に書いていきます。
それでは、どうぞもうしばらく、自叙伝にお付き合いくださると嬉しいです。
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