【その11】そしてここにわたしがいる
どれくらい前だったか記憶が曖昧だが、5、6年ほど前に見つけたブログがあった。
そのブログは『40年かけて自分は「大丈夫」だということを知った』経緯を歩んできた1人の女性の「自伝」だった。
波瀾万丈の末の成功物語とか、暴露ものではなく、未経験で夜のホステスをしてぶっちぎりNo.1になったり、かと思えば驚異的な集中力でこれまた未経験の大工や左官まで超プロ級にこなしたり、結婚と離婚、渡伊と再婚、日常の中で様々の気づきを得ながら生きるミユさんと名乗る彼女の自伝を一気に読んだ。
なんて面白い人なんだろう!
紆余曲折経験しているのに、この爽やかさはなんだろう。ブログに出てきた場所や住んでいた地域が偶然近かったこともあり、どこか勝手に親近感を持った。
その後しばらく経って、忘れた頃にあの作家である吉本ばななさんとコラボイベントをしたことを何かのきっかけで知った。なんとばななさんがその自伝を読んで、一般人であるミユさんにメールで連絡をしてきたのが始まりだったそうだ。そんな夢物語のようなことが起きる人がいるのかと思った。そしてブログでも度々出てきていた「秘行」というワードが気になっていた。そして3年間毎日ブログを投稿し始めたことを知り、2021年頃からたまに読むようになった。
思えば約2年前の2021年は「目が覚める」きっかけになることに出会っていたのだと思う。
いつの頃からお釈迦さまや仏像、宗教に興味があり、見えない心について知りたかった。
特定の宗教を持っていないにも関わらず、「信仰心を持つ」ということそのものに猛烈に惹かれていた。仏像がなぜ好きかと問われたら、その仏像を作る背景やその仏像に拝む時の人々の想いを想像するのが好きだったからだと思う。
どんなに時代が進んでも、人の不安や祈る気持ちはいつもそこにあるということになぜか惹かれた。ヨガやアーユルヴェーダに惹かれていたのもそこだった。
本質とかアートマンとか神とか意識とか空とか、そんなものに惹かれて、たくさんの本を読んだし、勉強もしたし、瞑想もした。心理学や脳科学、量子力学にも興味を持って素人ながら学んだりもした。
けれど、分かったような気がした翌日には分からなくなっていた。「あの人」が言うことと「この人」が言うことの違いに惑わされた。
何を信じたらいいのか分からなかった。
そもそも、何かを信じることで解決することだとも思えなかった。きっと何かを見落としていて、本質が見えてないんだと思っていた。そして本質を分かっていそうな人を探していた。
ミユさんは当時すでに壇珠と名乗っていて「秘行」のワークをオンラインで開催していることを知り、2021年の夏頃から、初級・中級・上級ワークを続けて申し込んだ。彼女のブログを読んでいるとこの人は何か分かった人なんだろうなと思っていた。
ちなみに「秘行」という名は、彼女がこっそりと誰にも言わずに1人で日夜「自分から出て観る」ということを勝手にやっていたからで、自分の中でそう呼んでいたから、らしい。
その「秘行」というワークを大きな期待とともに体験した。しかしそれは驚くほどにシンプルで、難しい言葉やそれっぽい言葉は一つもなく、学びや覚醒に繋がるような、何か教えのようなものもなかった。概念もなかった。覚えることもなかった。
ただひたすらに文字通り淡々と「自分から出て自分を観る」ことをシンプルなワークを通して行うのみで、ファシリテーターである壇珠さんの誘導も導きも、そしてまさかの何一つとして正解がなかった。
え、ちょっと待って待って。こんなに単純なことだったの?え、私が知りたかった、何年も何十年もかけて知りたかったものは、こんな風に隠れもせずにそこにあったの?
えぇぇぇぇ?????
あの時の肩透かし感と、同時になにか夢から目が覚めた感が本当に新鮮だった。
そこから徐々に徐々に「自分から出て観る」ことを日常の中で反復していった。
反復していくと、期待せずとも次第に抗えなくなるくらいにその遊びに慣れてきてしまった。
気付いた時には「自由自在に取り外し可能メガネ」を掛けている自分がある種の図々しさとともに幅を利かせてくるようになっていった。
わたしは何十年もかけて、あらゆる方面から本質を追い求めてきた。これが本質、これが本物だと色付けをしてきただけだったの?その自作自演のドラマの中で生きていただけだったの?外側にまとわせた衣をあたかも本質だと思い込み「本質って高尚で輝くもの」だと勝手に仕立て上げ、そのキラキラとした衣をあつく厚くして拝んでいたのは、紛れもなくこの私だった。
ぎゃーーー。
正解を求め、正解ではないことは間違いだと追いやって、「どちらかの世界」をせっせと作っていたのは、私以外の誰でもなく、何でもなく、まさかのこの私だった。本当に全部ぜっっんぶ!一粒残らずやってるのは自分だった。どこまでいっても一つの例に漏れず、自分劇場を自分劇場だと知らずに生きていたなんて!!!
そのことに気がついた時、本当に体の芯から震えて愕然とした。比喩でもなんでもなく、本当に立っていられなかった。ショックだった。嗚咽になるほどにワンワン泣いた。悲しくもないのに、悔しくもないのに、泣けて泣けて仕方がなかった。
私が見ていたもの、良かれと思って、みんなの役に立つと思って、優しい世界に繋がると思って、情熱の名のもとに熱く伝えて先導までした気になっていたことは全部「わたしmade本質という名の世界」だったのか。
はぁぁぁぁぁ・・・・。恥ずい。恥ず過ぎる。もう穴という穴があったら入りたいくらい猛烈に恥ずかしかった。本質を求めていたわたしは本質の逆をひたすらに作っていたらしい。
そしてどこまでいっても自分含めて、誰もが勝手に自分が観たい世界を採用して見てるんだという、あまりに単純なことに気がついたとき、「ってことはさ、自分の好きなように思い込みを設定できるってことなんではないか?それがわたしの生きている世界そのものになるんではないか?あぁ!それだけなんだ!」
思い込みが悪いとか、思い込みを消そうということではなく、そのものを破ってしまえ、と思った。わたしたち人類全員「思い込みを自由に設定しているだけのこと」だと体の中にこの気づきが走ったとき、途端に何かが溶けてブワーっと、楽になったのをついさっきのことのように覚えている。
あぁぁぁ、ごめんよ、あたし。
自分には力がないと思い込ませてごめんよ。
何かに秀でていないと価値がないのかもしれないと思い込ませてごめんよ。
馬鹿にされないようにという思い込みから頑張らせてごめんよ。
ちゃんとしないと、ちゃんと生きれないという思い込みの呪いをかけてごめんよ。
わたしの心が変わらないと現実はうまくいかないと思い込ませてごめんよ。
そしてそれでも生きてきてくれてありがとう。
見捨てないで生きてきてくれてありがとう。
あなたは大丈夫。
わたしがあなたを愛してる。
好きじゃないところもたくさんあるけどさ、それはそのままで愛してる。
自分を変えないとダメだと思っていたあなたそのものが愛おしい。
大丈夫。
あなたが今も過去も未来もどうであろうと、何を感じようと、考えようと、何かをしようとしまいと、ひたすらに愛している。
そのことを思い出すまでに時間がかかってごめん。あなたがわたしを見捨てずにここまでタフに生きてきてくれたように、わたしもあなたを決して見捨てない。
わたしはあなたがアガることをチョイスしていく。
あなたの気分がいいことをチョイスしていく。
あなたが嬉しいことをチョイスしていく。
自己嫌悪に陥らないためのニュアンスや雰囲気をあなたのためにチョイスしていく。
そう決めたら、そう約束したら、腹から脳から、途端に爽やかな気持ちになった。
わたしが18歳の頃からずっと欲しかったのはこの爽やかさだったのかもしれない。
自分の中に気持ちの悪さが入る隙のないこの爽快感。自分の感覚とズレのないピタッと合う感覚。
骨格メソッドを体験していく中で骨格という土台が地球のシンプルな力学に沿って変わっていくという体験と、同時に秘行に気づいてからというもの、徐々にそのピタッと感が何をするのにも、わたしだけの指針になっているのを日々感じている。
誰かや何かから提示された指針ではなく、わたしにしか分からない指針。
わたしがわたしにOKを出せる感覚。
その自由を手に入れた、というより気がついた感覚。わたしのわたしへの誤解が解けた時、世界への誤解が、いとも簡単に解けてしまった。
ここまで長かったなと思う。
と同時に、短かったなとも思う。
単純にわたしはわたしが面白がってる姿を見たい。わたしはわたしが嬉しそうな姿を見ていたい。アゲを存分に満喫しているわたしでいて欲しい。
それが同時に世界そのものだから。
世界からのわたしの扱われ方そのものだから。
なんだ、わたしがこの人生で欲しかったのはそれだけだったんだね。
そして、どこかで同じようにこの地球で生きているあなたのアゲ仲間になりたい。
その瞬間に誰にもあるこの面白き地球人生を共にケラケラと笑い合いたい。
わたしも、あなたも、大丈夫でしかない。
今の私は、静かにそう思っている。
【完】
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