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天草コレジヨ館、コレジヨ跡地

天草コレジヨ館

「16世紀以降に河浦の地に伝えられた南蛮文化の資料を多数展示」

館長さんが丁寧に説明してくださいました。天正少年使節が持ってきたグーテンベルク印刷機の復元、当時日本で作っていた竹製パイプオルガン(復元)があります。実際に触ったり動かしたりさせてもらえるのが楽しかったです

当時日本でも流行した南蛮衣装。南蛮屏風に描かれたカピタンの服を基に製作したものだそう。秀吉はバテレン追放令を出した後もファッションで十字架のロザリオをつけてたとか

日本と西洋音楽

ポルトガル人たちが日本に来ると西洋音楽も入ってきました。ザビエルは山口の大名・大内義隆に楽器を送ったり、豊後では布教初期からヴィオラ・ダ・アルコを習う子供たちもいて聖歌隊があった記録もあります。セミナリヨ(神学校)ができてから音楽の授業も当然ありました。今まで聞いたことのない西洋の音楽や楽器は日本人にはかなり衝撃で魅力的だったようです。畿内で宣教していたオルガンティーノ神父は「オルガンや他の楽器を備えて、音楽を盛んにすれば1年の間に京都や堺の人たちは改宗するだろう」と書いているくらいです。ただ他の神父の記録には「日本人はオルガンとか西洋音楽をかなり不快に思っている」というような記録もあるので人それぞれ当然いろんな感じ方があったと思われます

オルガンはヴァリニャーノが1579年に初来日したときに持ってきました。その後は日本で竹製のパイプオルガンを作っていたそうです。この復元したパイプオルガン製作についてはぜひこちらを

コレジヨ館の竹製オルガンについて
http://www.eonet.ne.jp/~kogakkihirayama/sankou/banboo_organ.pdf

鍵盤とふいごと二人で弾きます

*サカラメンタ提要とは1605年に長崎で出版されたキリシタンの典礼書です*

天正少年使節が帰国後に秀吉の前で音楽を演奏した記録があります。そのとき演奏した楽器は、アルカラで枢機卿から贈られた、クラヴォ、ハープ、リュート、ヴィオラだったそう。秀吉は3回もアンコールして大喜びでしたが、秀吉が楽器を全部欲しがったためあげることになったようです。。

グーテンベルク印刷機とキリシタン版

復元されたグーテンベルク印刷機
ブドウの絞り機がヒントになって発明されたそうです

ヴァリニャーノは日本布教のために印刷機の必要を感じ、天正少年使節一行に印刷技術取得要員も同行させました。そのうちの一人は諫早出身のコンスタンチノ・ドラードという16歳の少年でした。ヨーロッパから帰国する時、購入した印刷機を日本に持ち帰り、ここ天草や長崎で教理本だけでなく源氏物語など様々な本(キリシタン版)が出版されました。しかし徳川の禁教令で、ドラードと天正少年使節の一人・原マルチノは印刷機とともにマカオへ追放されました。

印刷された 天草版平家物語。日本語を勉強する来日宣教師のために作ったもの。当時の日本語をローマ字で書いてあるので、どんなふうに日本語を喋っていたのかわかります。タイトルには
NIFONNO(にほんの)
*COTOBA TO(ことばと) 
Historia uo narai xiran to FOSSVRV FITO NO TAME-NI
(ヒストリアを習いしらんと欲する人のために)
XEVA NI YAVA RAGVETARV FEIQE NO MONOGATARI.
(世話に 和(やわ)らげたる 平家の 物語)

世話に和らげたるとは、わかりやすい言葉づかいにしたよ、らしいです

*当時、ハ行はファ行音だったため、NIFON(日本)→ニフォン、Fossuru(欲する)→ふぉっする Fito(人)→フィト Feiqe平家→フェイケ と発音、さらにセ-Se はシェ-Xeと発音していたようで、[世話に]が XEWAシェワ になっています。セというのは関東の言い方だったそうです。

天草版イソップ物語のテキストはこちらで読めます。過去の日本へ行ったら現代の日本語は通じるだろうか?という疑問が浮かびますが、これを読む限り現在使わない表現や言葉があるとはいえ結構通じるので、戦国時代に行っても言葉の問題はまあ大丈夫かと思います笑
https://www2.ninjal.ac.jp/textdb_dataset/amis/amis-rk-001.html

天草コレジヨ跡地


実際の天草コレジヨの場所ですが、1591年にはコレジヨ館から車で5分ほどのこの辺にあったのではないかとのこと。ただ証拠はないようです。バテレン追放令で転々としたコレジヨはその後は長崎へ移転されました。

周辺は山や川に囲まれて静かなところでした


天草コレジヨ館


コレジヨ跡

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