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My last twenty-something

先日、晴れて29歳になった。なんだかんだ健康に生きてこれたこと、29年前の夏に私を頑張って産んでくれた母、嬉しさのあまり私を取り上げた医師や看護師全員にご飯をご馳走した明るい父の存在に感謝したい。

25歳を超えたあたりから「年齢」はただの数字になってきた感が否めない。けれど今年が最後の20代だと思うと、なんだか感慨深いものがある。

「もうハタチだからしっかりしなくちゃ」という気持ちで参加した成人式も、転職や恋愛にてんやわんやだった23歳〜25歳の頃も、全て自分が辿った過去なのに、時折「なんであんなことしたんだ?」と恥ずかしさでいっぱいになる。それでも、若さゆえの冒険も過ちも、好奇心の赴くまま試したことのすベてを、わたしはやってみて良かった。厳しい親の目をかいくぐり、飛び込んでみて正解だったのだ。そうじゃなきゃ見えない世界があったし、間違いにも正解にも気づくことができなかった。経験というベースがない分、20代は挑戦と失敗の連続だったと思う。

わたしの誕生日は平日だった。「奥さんの誕生日なので」とリモート会議を早く切り上げた旦那さんがそそくさと出かけ、大きな花束とワイン、ケーキ、お寿司を抱えて帰ってきた。

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わたしの好きなバラや百合や紫陽花の花もいれたよ〜と報告する彼の笑顔が愛おしい。書いてくれた手紙の文章にも心が温かくなった。たまに喧嘩もするけれど、旦那さんの優しくて愛情深いところが好きだ。外国人ですか?と思うくらい毎日愛を伝えてくれるところも、恥ずかしいと言いつつ本当はとても嬉しい。

話がそれてしまった。

29歳まで生きてみて、それなりにだけど「経験」のベースができたと思う。だからか20代前半の頃よりも、いかにミスを回避・最小限にできるか計算して行動するようになった。それって自分を守る方法ではあるけれど、リスクを冒さないディフェンシブな姿勢でもある。

頭の中で「ミスをしたら何が嫌なのか?」という問いをほどいてみると、「恥ずかしい」「ショック」「迷惑をかけるかも」といった至極私的な感情の動きがほとんどだった。わたしは自分が思っている以上に、ミス=悪いことだと奥底に刷り込まれているのだろう。

きっとこれからも行動するたびに間違え、たくさんたくさん失敗すると思う。だけど「やっても無駄、きっとできないよ」と影から批判し、自分は何も行動しない大人にはなりたくない。

冒険と失敗に満ちていた20代を振り返ると、「やったこと」の成果云々よりも「やらなかったこと」の存在をとても悔いている。

人はいつ死ぬか分からない。だから永遠の眠りにつく日まで、挑戦する心を忘れないでいたい。30代、40代になったわたしが過去の自分を振り返ったときに、悔いがない(少ない)ことを誇りに思ってほしい。

少なくとも、数多くの挑戦と失敗を「若かった、馬鹿だった」と笑い飛ばせるようになりたいな...。

旦那さんと寿司やケーキを食べながらそんなことを願った29歳の誕生日、とても幸せな日になった。




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