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秋風と向日葵

「だから先月も同じこと言ったはずですけど」
朝から誰とも話していなかった清美の声は掠れて音になった。
始業後すぐのオフィスは流行りの時差出勤の影響もあってそれほど人がおらず、マスク越しとはいえ静かなフロアに自分の声がはっきりと響いた。自分で思っていた以上の冷たい声に、そう多くはない人間との会話なのだからせめて朝一番に声に出す日本語は優しいものでありたいと彼女は思った。
「ごめんごめんって、来月は気をつけますわ」
それは先月も先々月も聞いたセリフだわ、と言い返しかけそうになるのをなんとか飲み込んで、よろしくお願いします、とだけ呟いて引き返した。ただでさえ人と話す機会がぐんと減ったこの一年、その貴重なコミュニケーションの場をわざわざ喧嘩に当てられるほどの贅沢は彼女にはできなかった。いかんせん貧乏性なのだ。
「細かいんだよな毎月…」
ああなるほど、係長はこのご時世の中わずかしかない人とのコミュニケーションに、わざわざ苛立ちを添えてあげられるほどのリッチな感覚をお持ちの方なのか。ぎりぎり相手に聞こえる程度の技巧まで添えて。匠の技というやつか。
「聞こえてんだよ……」
マスクの中だけで小さく口を動かして席についた。口元が見えないというのは慣れないうちこそ不便だったものの、働く上では悪いことばかりではないような気がしていた。無理やりな作り笑いも、周りから笑われるほどの仏頂面も、マスクさえあればうまく中和してくれる。アフターコロナの世界でも、ビジネスにおいてマスクは仕事着の一部として定着しないものかと彼女は密かに祈っていた。

「おはよ〜ございま〜す」
その明るい声に、清美の背筋が伸びた。隣の席の吉田麻里だ。シフト勤務になってから、彼女と出勤日が重なるのは週に一回、水曜日のこの日だけだ。
「おはようございます」
「いやはやもうすっかり秋だね、寒いくらいだわ」
麻里はそう言って笑うとパソコンの電源を入れた。
彼女は出勤するとまずコーヒーを飲む。マスクを外して、缶コーヒーを口元に近づけた。
「あ!そのスカートかわいいね」
そして必ずと言っていいほど、清美の持ち物や服装を気にかけるのだ。指輪いいね、ネイル綺麗だね、かわいい時計してるね。人と話す機会が限られるこのご時世、彼女が隣の席でよかったと、清美は週に一度この日が来るたびに思う。
「あ、ありがとうございます」
「ひまわり……?」
「全然違うでしょ、流石にこの時期にひまわりのスカート履かないですよ」
「あはは〜!そっか、わたし大きい花柄全部ひまわりって言っちゃうんだよねえ!」
そう言うと麻里は肩を揺らしてきゃははと笑った。愛想がないと煙たがられる清美自身が覆い尽くされてしまうような感覚になるほど、麻里は明るい顔をして笑う。自分よりいくつも年上であるはずの彼女の笑顔が、清美には眩しく映って仕方ない。
「ほんっと適当なんだから」
頬が上がったせいでずれてしまったマスクを、清美はそっと戻した。


昔から、清美は自分の顔があまり好きではなかった。
だからその分、服とか爪とか時計とか、自分の意思でどうとでもできるものは大切に選んできた。人間中身が大事だという説法は大変ありがたいが、外見も中身の表出に過ぎないと言うことは、前提であって欲しい。
「これとこれにするか」
そうひとりごとをつぶやいて、ベッドの上に無造作に置いてある洋服を畳んだ。少しクセのある柄のスカートは、もちろん彼女のお気に入りである。虫みたい、とかこの間以上に適当なこと言われそうだなこの柄。清美は明日の朝の麻里の一言目を想像して、思わず笑ってしまった。
先週、清美は麻里に言えなかったことがあった。髪色を変えた彼女に、1週間遅れだけど、似合っていて素敵ですと言おう。「今更〜?」と笑われるだろうけど。

明日は水曜日だ。

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