小説「一人称のゆくえ」 ─弦月湯シリーズ─ 第1話(全4話)
あらすじ
*
第1話
いとこの暦ちゃんは、いつもなにかを我慢していました。
暦ちゃんのことは、生まれた時から知っています。わたしが8歳の頃に、暦ちゃんが生まれた時のこと、今も覚えています。生まれたての暦ちゃんと病院で会った時、ふわっふわで柔らかくて、赤い顔をしながらふにゃふにゃと泣いていました。良輔おじさんも聡恵おばさんも、笑っていました。おじいちゃんもおばあちゃんも、笑っていました。みんな、みんな笑っていました。
幼稚園のときに、バスの事故でおとうさんもおかあさんも亡くしていたわたしには、暦ちゃんを囲んで微笑む「おとうさんとおかあさん」の姿はとても新鮮でした。暦ちゃんのことを可愛く思う気持ちとは別に、おとうさんとおかあさんがふたりとも揃っている暦ちゃんのことを羨ましく思う気持ちが湧き上がってきました。でも、みんながにこにこしているこの場で、こんな黒い気持ちを持つことはよくないことだと自分に言い聞かせて、黒い気持ちには蓋をしました。
暦ちゃんが生まれてからは、良輔おじさんも聡恵おばさんも、よく弦月湯に来るようになりました。みんなで一緒にお夕飯を食べる機会も増えました。暦ちゃんのおとうさんとおかあさんが、自分のおとうさんとおかあさんにもなったみたいで、なんだか嬉しかったです。自然と、暦ちゃんのことを自分の妹みたいに思うようになっていきました。
暦ちゃんは小さな時、活発な子でした。弦月湯のあちこちを探検したり、裏庭の柿の木に登ったりしていました。聡恵おばさんはそんな暦ちゃんをよく叱っていましたが、おじいちゃんは目を細めて喜んでいました。その頃のわたしは「ナルニア国物語」に夢中で、暦ちゃんの笑い声をBGMにしながら、ライオンのアスランが出てくる冒険に胸躍らせていました。夏の昼下がり、おばあちゃんが入れてくれた麦茶を飲みながら、家族のにぎやかな気配に囲まれている時間はとても幸せでした。
そんな暦ちゃんが笑わなくなっていったのは、小学校に入ってからのことでした。区立だけど、制服のある小学校に通い始めた暦ちゃんは、驚くほど笑わなくなりました。それまでは、まるで天使みたいな紅茶色の髪をくりくりのショートカットにしていたけれど、小学校に入ってからは暦ちゃんは髪の毛を伸ばし始めました。聡恵おばさんが、髪の毛を伸ばすようにと言ったらしいです。天然パーマの髪をきっちりとした三つ編みにして、小さなリボンをつけるようになりました。ズボンではなく、スカートをはくようになりました。小学校中学年からは、私立の中学を受験する準備を始めたとかで、暦ちゃんたちは弦月湯にめったに来なくなりました。いつか小学生になった暦ちゃんと「ナルニア国物語」を一緒に読めるかな。そう思ってわたしは楽しみにしていたけれど、その日は来ませんでした。塾と勉強で暦ちゃんは、すっかり忙しくなってしまいました。
わたしがスペイン語科の大学3年生になった春、中学に入学したばかりの暦ちゃんはセーラー服を着て、弦月湯にやってきました。きっちりと編み込まれた几帳面な三つ編みも、胸のあたりまですっかり伸びました。久しぶりに弦月湯に来た良輔おじさんは、おじいちゃんと話し込んでいます。実の親子同士、積もる話もあるのでしょう。聡恵おばさんは、この日来ませんでした。新しく入った女子校のPTAの集まりがあったそうです。おばあちゃんの話によれば、大学までエスカレーター式に進めるその女子校に暦ちゃんを入れるまで、聡恵おばさんは相当の苦労を重ねたとのことでした。
裏庭の縁側で本を読んでいると、ふと気配を感じました。セーラー服の暦ちゃんが立っていました。
「いずみおねえちゃん、隣に座ってもいい?」
「……どうぞ」
暦ちゃんは、すとんと腰をおろしました。そして、裏庭の柿の木をじっと見上げています。わたしは本を閉じて、暦ちゃんに顔を向けました。
「柿の木、懐かしい?」
「え?」
「暦ちゃん、幼稚園の頃よく木登りしてたね。柿の木見ると、いつもその頃の暦ちゃんを思い出すの」
暦ちゃんは、私を見つめました。一瞬の後、暦ちゃんは視線を縁側に落としました。
「もう登らないよ」
「そうなの?」
「おかあさんが嫌がるもの」
「そっか」
わたしは柿の木を眺めました。暦ちゃんは、俯いたまま何も言葉を発しません。
「暦ちゃん、なにかあったら、いつでも弦月湯にいらっしゃい」
わたしの唇からはそんな言葉が洩れていました。暦ちゃんは、顔を上げました。わたしは自分の唇から自然に発された言葉に内心驚きながらも、暦ちゃんを見つめました。
「わたしはいつでも、暦ちゃんの味方だから。わたしはいつでも、ここにいるから。なにかあったら、いつでも弦月湯にいらっしゃい」
暦ちゃんが、唇を噛み締めました。無言で頷きました。何度も、何度も頷きました。
それから、暦ちゃんはたまに弦月湯に来るようになりました。ぽつりぽつりと色々な話をしてくれるようになりました。新しい中学では、美術部に入ったこと。弦月湯に来られない日は、塾に通っていること。塾には週3回通っていること。お母さんは、暦ちゃんが大学を出た後にはいい仕事をしてほしいと願っていること。いい女の子として生きてほしいと願っていること。
「でも私、〈いい女の子〉として生きるって、どういうことだかわからない。〈いい仕事〉が何なのかも、よくわからない」
暦ちゃんは、裏庭の柿の木をスケッチしながらぽつりと言いました。
「正直、『女の子として生きる』ということが、どういうことなのか、まったくわからない。本当のことを言うと、自分のことを〈私〉と呼ばなきゃいけないことも、すっごく嫌なんだ。自分は、自分でいたい。それだけじゃだめなのかな」
「別にいいんじゃないかしら」
そう言うと、暦ちゃんは大きな目をさらに大きく見開きました。
「いずみおねえちゃんは、そう思うの?」
「いいも何も、暦ちゃんの人生なんだから。暦ちゃんの人生を生きるのは、おかあさんでもおとうさんでもないんだから。暦ちゃんの人生を生きられるのは、暦ちゃんひとりだけだもの」
「そっか」
暦ちゃんはそうつぶやいて、画用紙に描いた柿の木に鉛筆を走らせました。鉛筆で柿の木に影をつけながら、暦ちゃんは唇を開きました。
「いずみおねえちゃんは、どんな生き方をしていきたいの? 『女の子らしい生き方』をしたいって思う? いずみおねえちゃんらしい生き方って、どんなものだと思う?」
暦ちゃんの質問に、わたしはしばし考え込みました。わたしは、どんな生き方をしていきたいのかしら? その瞬間、さまざまな可能性のビジョンが体中を駆け巡りました。
でも、自分には選択肢は他にないことに思い至りました。そうだ、わたしは弦月湯を継いでいかないとならない。おじいちゃんもおばあちゃんも、いずれこの世から旅立つ。そうなったとき、弦月湯を守っていくのは自分の役目だ。そうでした。子供の頃からずっとそう覚悟を決めて生きてきたのでした。
「わたしは、ずっと弦月湯にいるわ。弦月湯を守っていかなきゃならないもの」
わたしは裏庭の柿の木を見つめながら、そう言いました。柿の木は青々とした葉を茂らせています。
「わたしにも『女の子らしい生き方』はどんなものか、わからない。けれど、自分らしい生き方ならわかる気がするの」
「自分らしい生き方?」
「ええ。自分の心が快く、心地よくいられる方を選ぶ生き方。わたしは、おじいちゃんとおばあちゃんが作ってきた、この弦月湯を次の時代に引き継いでいきたい。それが自分の大事な役目だと思ってる。だから、その役目を全うしていくことが、自分の仕事だと思ってる」
「いずみおねえちゃんにとっては、それが快く、心地よいことなの?」
「ええ」
わたしは頷きました。そう、それがわたしの役目だもの。
「……ほかに、いずみおねえちゃんがやりたいことって、ないの?」
暦ちゃんの問いかけに、わたしは自分の心に向き直りました。
「……バルセロナには行ってみたいな」
自分の口から飛び出した言葉に、わたしは驚きました。わたし、バルセロナに行ってみたいんだ。
「バルセロナ、おねえちゃん好きなの?」
「……おじいちゃんもバルセロナに留学していたでしょう。おばあちゃんもおじいちゃんについていったから、子供のころからバルセロナの話をずっと聞いてきたのよ。弦月湯の内装も、バルセロナのガウディを意識したものでしょう? だから、バルセロナに行ってみたいってずっと思っていたのかもしれないわね」
そうか。だからわたしはスペイン語を専攻に選んだのか。今さらながら、自分の心に気がつきました。
「……それなら、バルセロナに行くのがいいと思う」
「え?」
「それが、いずみおねえちゃんの心にとって、快くて心地よいことだと思う。おねえちゃんの心が喜ぶことだと思う。だから、おねえちゃんにバルセロナに行ってもらいたい」
「……ありがとう」
この時の暦ちゃんとの会話がきっかけとなって、通っている大学が主催する、バルセロナの大学への春季語学研修に、思い切って申し込みました。子供の頃から貯めていたお年玉やお小遣いが役に立ちました。
バルセロナから帰ってくると、中学2年生になった暦ちゃんが会いに来てくれました。お土産に、セビリャ焼で出来た陶器の時計を渡すと、とても喜んでくれました。
「おねえちゃん、なんだか雰囲気がすっきりしたね」
「そう?」
「うん。いらないものが、おねえちゃんの中からなくなった感じ」
そうかもしれません。子供の頃からずっと憧れていたバルセロナに、短期間とはいえ暮らせたことで、夢がひとつ叶ったのだから。わたしは、静かに微笑みを返しました。
「おねえちゃんがバルセロナに行ってるあいだに、自分もいろいろ考えたんだ」
「どんなこと?」
「自分の将来のこと。わた……自分ね、美術の仕事をしていきたいって思うんだ」
「美術、いいわね」
「おねえちゃんは賛成してくれるの?」
「もちろんよ。暦ちゃんがしっかり考えて、決めたことなんでしょう」
暦ちゃんは、はにかみながら微笑みました。何年かぶりの笑顔です。
「おねえちゃん、ありがとう。ほかにもね、自分なりに考えていること、いろいろあるんだ」
「どんなこと?」
「いろいろ。まだ言えないけれど、いろんなこと」
「そう」
わたしは頷きました。
「暦ちゃんがしっかり考えて、決めたことなら、わたしは応援しているから」
「ありがとう」
暦ちゃんは、ふたたび微笑みました。紅茶色の三つ編みがぴょこんと揺れました。
暦が、弦月湯から都立高校の美術科に通うことになった。おじいちゃんとおばあちゃんからそう告げられた時、私はそう驚きませんでした。暦ちゃんは、自分の心が心地よく、喜ぶ方向へと舵を切り始めたんだな。そう思っただけでした。
ただ、荷物を抱えて弦月湯に来た暦ちゃんが三つ編みをばっさり切って、子供の頃みたいなくりくりのショートカットになっているのを見た時には、驚きました。
「暦ちゃん、髪の毛切ったのね」
「うん。ようやく、切れたんだ」
暦ちゃんは屈託なく笑いました。
「おねえちゃん、やっと、頭が軽くなったよ!」
そう言って、暦ちゃんは頭をぶんぶん振り回しました。紅茶色のくるくるとした髪の毛が揺れました。暦ちゃんのそんなお茶目な様子を見るのは、子供の頃以来のことでした。ああ、あの頃の暦ちゃんだ。わたしは感慨深く思いながら、暦ちゃんに笑みを返しました。
暦ちゃんは高校では陶芸部に入りました。初めて作った小皿を、おじいちゃんとおばあちゃん、そしてわたしにくれました。いまでも、その小皿は大事にしています。
暦ちゃんが弦月湯で暮らすようになって、おじいちゃんは暦ちゃんにデッサンのレッスンをするようになりました。題材は、弦月湯の中のいろいろな物。暮らしの中のいろいろな道具。そして、自分の手。
「まずは自分で描いてみろ。たくさん描いてみろ。技術は教えるもんじゃない。あらゆる事柄の中から学んで、盗んで、身につけていくもんだ」
「美術のことを美術だけから学ぼうとするなよ、暦。あらゆる事柄の中に、おまえの表現の種がある。そして、おまえの表現の師匠は、おまえの中にいる。これからどんな先生がおまえの前に現れたとしても、おまえの表現の師匠はおまえ自身だということを忘れるな」
おじいちゃんが、暦ちゃんに言う言葉が漏れ聞こえてくると、わたしはなんだか嬉しくなりました。おじいちゃんはようやく、自分と語り合える相手を見つけられたのね。そんな様子を微笑ましく感じながら、大学を卒業してから始めたスペイン語の翻訳の仕事に、わたしは取り組みました。
良輔おじさんは、たまに暦ちゃんに会いに来ました。聡恵おばさんが来ることは、ありませんでした。そのうちに、良輔おじさんと聡恵おばさんが別居することを知りました。その報せを受け取った秋の夜、暦ちゃんはひとりで裏庭の柿の木を眺めていました。
風呂上がりに、裏庭の柿の木を眺めるぽつんとした暦ちゃんを見て、わたしは横に腰を降ろしました。暦ちゃんはわたしをちらっと眺めて、また柿の木に視線を戻しました。
しばらくの静寂のあと、わたしは口を開きました。
「わたしね、子供の頃、暦ちゃんが羨ましかった」
「え?」
暦ちゃんは、きょとんとして私を見つめました。
「わたし、両親の顔をほとんど知らずに育ってきたでしょう。だから、おとうさんとおかあさんがいる暦ちゃんが羨ましかったの」
子供の頃の黒い気持ちも、口にだして風通しよくしてしまえば、なんてことないことでした。わたしは言葉を続けました。
「でもね、それはそれとして、生まれたばっかりの暦ちゃんは可愛かった。真っ赤な顔をして、ふにゃふにゃ泣いてて、可愛かった。ああ、この子が今日からわたしの家族になっていくんだなあって思ったの」
暦ちゃんは、柿の木に視線を戻しました。裏庭に、虫の声が響きます。
「家族でも、わかりあえないことはある。家族だから、わかりあえないこともあるのかもしれない。それでもね、暦ちゃん。わたしはずっと暦ちゃんの味方だからね。味方でいたいと、思い続けているからね」
暦ちゃんは黙っています。わたしも黙って、暦ちゃんから視線をずらし、柿の木を見つめました。
ややあって、低くすすり泣く声が隣から聞こえてきました。わたしは、柿の木をただ見つめ続けました。虫の声が、やけに澄んで聞こえる夜でした。
(つづく)
*
つづきのお話
・第2話はこちら
・第3話はこちら
・第4話(最終話)はこちら
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?