見出し画像

障害のある兄弟がいるから、インクルーシブに興味をもった、わけでもない

2013年5月1日に登記をしたCollableは今期で12期を迎えました。今日はCollableの11歳の誕生日。

決して胸をはって立派に続けられたとは思えてないですが、私にとって10年というのは本当に感慨深く、1つの目標でした。が、その10周年を華麗にスルーしてきてしまいました。苦笑。

ただ、10年となると社会や周辺環境はガラリと変わるもので、私のバックグラウンドを知らない人も増えてきたこともあり、せっかくなので今日は自己紹介もかねて、今のCollableにつながる話を書こうと思います。

障害のある兄と弟がいます

私には障害のある年子の兄と3つ下の弟がいます。2人とも重度の知的障害と自閉症を併せ持っていて、現在は地元の大分県で父と母と暮らしています。知能指数は極度に低く、言語的なスムーズなコミュニケーションが実現したことは(おそらく)ありません。

家族でどこかに行くことは非日常イベントでした。

家族で行く近所のラーメン屋ですら、特別な時間でした。

家族旅行はこれまで1度のみ。当時、兄弟の歯医者で博多に数ヶ月に一度通っていたので(わざわざ大分から福岡の博多に通っていたのは、当時全身麻酔で治療してくれる障害児対象の歯医者が県内になかったから)、そのついでに1泊2日、福岡熊本で遊びました。九州を家族で出たことがありませんでした。この日に重度知的障害(多動等いろいろある)の兄は絶叫マシンが大好きであることが発覚したのはいい思い出です。

私の大学の入学式大学院の入学式(3.11の時期でなくなったけど。大学の卒業式も当然なかった)、大学院の修了式は両親のどちらかが来てくれ、両親が式典に揃うことはまずありませんでした。

兄弟のことで嫌がらせをされたり嫌な言葉をかけられたことも当然あり、両親の苦労もそれなりに見ていたつもりです。ただ、地域コミュニティの良さもあって、彼らを知ってくれてよくしてくれている人たちも多くいます。

そう書いていくと、なんだかさぞ大きな志がある人のように見えるかもしれません。障害のある兄弟との経験から、障害者差別に打ち勝ちたいから、共生社会を実現したいから、というわけでもありません。

今日は11歳のCollableの誕生日に、Collableに至るまでのあるエピソードと考えてきたことについて、綴りたいと思います。よかったら読んでね。

6つの瓶が並んでおり、中には大量の飴玉の個包装が入っています。小さく畳まれてそれぞれの瓶に入っており、色の統一性はなくカラフルです。
弟の飴玉袋コレクション@実家

私の日常は、文章にすれば褒められた

中学1年のときのこと。確か夏だったと思いますが、国語の宿題で提出した作文をきっかけに、先生から「市の弁論大会の学校代表にならないか」と言われました。

どういうテーマだったのかは全く覚えていないですが、自分の家族のことをつらつらと書いて、24時間テレビの良さを語り、障害者への差別をなくしたいよね、ということを書いたんだと思います。多分…。頑張って書いたわけでもなく、書き慣れたことを書いただけです。最高学年の誰かが出るわけでもなく、不思議でしょうがなかったことを覚えています。

弁論というのは書いた内容を暗記して人前で話さなければいけないのですが、練習が嫌いな私はなかなか内容を記憶することができず、結果として出場しただけ、という成績でした。ただ、その後学校の全校集会で、再度弁論を披露することになりました。

全校集会で自分の兄弟との日々、24時間テレビのこと、「差別をなくしていきましょう」

と、偉そうに最後に放ってみたものの、なんだかいいことをしているような気もするけれど、自分の日常が不必要に特別に扱われている気がして釈然としなかった。弁論を終えて受けた拍手は、なんだか自分をするりと抜けていったような、空虚な気持ちになったことを覚えています。

障害のある兄弟との日々は、いろんな当事者の子どもたちとの関わりの暗黙知を、私の中に育んでいきました。福祉の勉強は一切したことがなくても、自閉症の定義がよくわからなくても、いろんなこどもたちの面倒をよく見ることができました。おかげでいとも簡単に将来の進路は障害者福祉の道を期待されていました。

そして外面はよく、成績もその環境下では正直よかったので、家庭環境が掛け算して、いい子だと評価されやすかったなと思います。(今思うとADHD特性があちこちに出ていたのに、それを打ち消すような評価だったと思います)

自分の体験を書き、それっぽいことを書けば、簡単に評価されてしまう。そしてそうしたメッセージを知らず知らずのうちに受け取り、学習している自分に気づきました。

そんな日々のなか、私は中2で学校にあまり行けなくなりました。

スラングを止めようとしたら学校にいけなくなった

中2で、ガ●ジという言葉が流行りました。ついでにローカルな差別スラング「ボソ」も登場しました。意味は皆さんのご想像にお任せします。

当時その言葉に耐性がなかったわたしはひどく傷つきました。あの弁論の意味はなんだったのか?学校の先生たちは道徳の授業をしても、目の前の生徒のスラングには気づかないふりをするのが嫌でした。道徳の授業も、私が書いた作文が弁論大会の代表になることも、全部無意味だと感じました。

中2の担任に、「こういう言葉が流行っている。それは良くないと思う」と意を決して伝えたときに返ってきた言葉は「小百合さんがそう言われているの?」でした。

無力感を感じた後日、唐突な学年集会が開かれ、「そういう言葉が流行っており、よくない」みたいなことが先生たちから発信されるのですが、文脈的にその「告げ口したやつ」は私だと認識したクラスのメンバーから認識され、一斉に無視をされる日々が始まりました。

謎に生徒会に関わっていたり、部活もあったので、なんとか学校には通うのですが、もともと偏頭痛持ちの低血圧、当時めずらしい起立性調整障害でもあったこともあり、ますます学校に行けなくなりました。自転車通学だったのですが、自転車のタイヤに穴あけられて、スカスカのタイヤの自転車を50分こいで帰ったこともありました。

誰かの尊厳を守りたいと思って振りかざした正義感は、思春期を生き抜くうえではただのリスクでした。

地元のある日の風景です。冬の田んぼで、霜が降りており、山に囲まれています。左奥に小さな2階建ての建物がみえるのですが、それが私が小学校の後半で通った小学校です。

同じクラスの嫌いな人のことが、実は「わからなかった」

二岡くん(仮名)は、当時いわゆるスクールカーストのトップオブトップにいた男子でした。私は彼からもあからさまな嫌がらせをされていたので、彼のことが大嫌いでした。

当時特別支援学校(当時の養護学校)から交流・共同学習のためにやってくる、知的障害の同級生Aくんがいました。彼はいわゆる兄の後輩になるので、もちろんよく知っていました。だけど学年の中で最も落ち着きのないクラスだったこともあってか、Aくんとの交流共同学習はぜんぜんポジティブなものではありませんでした。

Aくんはズボンに手をつっこんでしまったり、よだれもよく出ていて、言語の意思疎通はほぼ難しい、そんな人でした。当然ながら、心無い言葉を当然ながらぶつけたり、腫れ物を触るように避けるような人たちがクラスにいます。たまたまそういう人たちが集合していた私のクラスに、なぜこの重度の知的障害の彼が来たのか。もっと交流に適したマシなクラスは他にあったのに、とまた学校の先生を恨みました。

学年に特別支援学級もありましたが、そこにいた子もいじめの対象でした。

そのとき中心にいたのが、(当時の私目線だと)の二岡くんでした。彼には誰も逆らえなかった。

きょうだいの人はわかってくれると思うのですが、こういうとき自分の兄弟が差別されているような気持ちになり、居心地は最悪です。そしてこんなあからさまなことが学校内で起こっているのに、そこには目を向けずクラスでは「障害者に優しくしましょう」なんて授業があったりする。交流共同学習も無意味だと思いました。

そんなこんなで紆余曲折あり、なんとか私は生き抜き、中3になり、地元の公立高校に進学しました。

弟はよくアニメやゲームをモチーフにしたオリジナルのイラストを書くのですが、ここには魔女の宅急便をモチーフにした、目鼻口のパーツが単調な複数のイラストが並んでいます。
弟は絵がそこそこにうまく、アニメや漫画などをモチーフにいろいろ描いたり、ドット絵を仕込んだりしていました

無事に高校生になった私は、二岡くんとも当然高校が離れたこともあって、学校も通常通り、そこそこに穏やかに通うようになりました。

ある日、中学の同級生である友達と中学の頃の話になったとき。彼女にふと言われました。


「そういえば二岡って、あの頃お母さんを亡くしていたんじゃなかったっけ。」


本当だったかどうか、確かなエピソードではないのですが、でもこれが本当かデマかは私にはどうでもよかった。もしその時期に、障害者への差別をやめようなんて言われているとしたら…?と、ふと立ち止まって考え込んでしまいました。未経験なりに想像するに、もし本当なら多分「うっせーわ」って状況だっただろうなと思います。

そして、「もし明日から突然お母さんがいなくなったら」という日常が、どんな様子なのか、よく考えたらわからないことに気づきました。家庭内の状況がガラリと変わる状況まで想像してみても想像ができなかった。朝が弱い私に、母から毎朝1階から「起きろー!!!」って叫ばれる日々も、家族揃って食卓を囲むのに、母の席は空欄になるのかとか、そもそも食卓自体、日々の食事はどうなるのかとか、とにかく考え込んでしまった。

私たちがもつ障害当事者との日々が、彼らと繋がらないのは、私がある日突然親をなくした人の日常が想像できないのと同じことだ、と思いました。そう考えていくと、私のあらゆる障害者への暗黙知が育った、騒がしい山田家の日常のコンテキストは、当然共有しがたいもので、なんだかそれを不躾に押し付けているような気がしてきました。

私は、中学生の頃までの、乱暴に正義感を振りかざしていた自分を思い出して、なんだか恥ずかしい気持ちになりました。相手の気持ちや状況を想像していなかったのは自分でした。私は相手のこと、相手の日常、環境、コンテキスト、あらゆることが全然想像できてなかった。

このころから、共生社会とか、今でいうインクルーシブを発信することメッセージとして放つことをやめたように思います。


だから、わからなさから始めたかった

大学生になり、大分の片田舎を出てきたわけなので、それはもう色んな経験をしました。たくさん遊んで授業もそれなりに受け、大学内外に友達ができました。そして私の日常から「障害者」がいなくなりました。

家族と離れて過ごしてわかりましたが、積極的に障害者支援のボランティアとかに行かない限り、当事者とぜんぜん出会わない生活であることに私自身も気づきました。同時に、こうした環境下にいることで、障害のある人のことが想像できない人の気持ちや状況もより想像・理解できたと思います。

その後晴れて(いやなんとか滑り込むように)大学院生になった私は、研究室で慣れない文献をたくさんよみ、初めて学ぶ領域を学び、たくさんの実践の見学をさせてもらい、と、追いつくことに必死でした。

カオスな日々の中、入学前からすでになんとなく「インクルーシブデザイン」を知っていた私は、ありがたいことに入学してすぐ、京都大学の塩瀬隆之先生と出会うことができました。その夏は京都での塩瀬さんの集中授業を受けたり、ワークショップにお邪魔したりして、インクルーシブデザインやワークショップの真髄を学びました。「見えないからクリエイティブのヒントを授けてくれる存在」としてのリードユーザーという存在と、ワークショップデザインという環境づくりそのものに、ぐっと引き込まれました。

テーブルの上を接写した写真です。手のひらくらいのサイズの紙袋を手作りされたものが写真中央にあり、手が添えられています。中央にStarbucks Coffeeのロゴマークが手描きで描かれています。そのほか、テーブルの上は模造紙や付箋などで散らかっています。
京都精華大での授業で(確か)出会ったなみなみコーヒーのワークショップ

その集中講義で、人生で初めて、全盲の人と関わりました。障害のことなら何でも知った気になっていた自分が恥ずかしかった。その時授業でリードユーザーとして来ていた全盲の1つ下の男の子は、今でもお友達です。

交流学習でも、道徳のためでもない、ここに見えないあなたがいるから、創発がうまれ、それを手がかりに相互理解が生まれ、それを通り越してなんか仲良くなるあの手応え。

メッセージではなく、それっぽいエピソードを聞かされるでもなく、設計された場のしかけによって、障害当事者と副次的にぐっと近くなる。障害を理解しようみたいなメッセージよりもぐっと、障害有無問わずに関係性がぐっと縮まった体験でした。

二岡くんとの環境に、メッセージよりも場の仕掛けがあったら、もっと違ったなと思ったのが、私のその後の実践研究を後押ししました。

そうこうしているうちに、周りは就職か博士課程への進学か、という2択のなか、なぜか起業をすることになり、今にいたります。(この経緯もいろいろありますが一旦省略します)

私の修士論文。分厚いのでテーブルの上で自立した、その修士論文の写真です。表紙には「終始学院論文 ワークショップにおける自閉症児と健常児の社会的相互作用に関する研究」とあります。
修論がたった!ってはしゃいだときの写真、研究室にて


そして2024年現在。インクルーシブというキーワードはもはや消費されゆくトレンドのようなものになりました。でもここで本当のインクルーシブとはなにか?を考えるとき、あの頃の二岡くんとの日々を思い返します。私は相手の「わからなさ」の状況を想像しているのか。

コンセプトと自分の家族背景だけ話せば、ポジティブに受け止めてもらえることも知っています。下手したら中身も見ずに評価してもらえたりしてしまう脆さがあります。

そうした背景もあり、できるだけ私個人が目立たないように、個人にフォーカスした取材などは実は創業期から断わってきました。同時に場の作り方を発明・探求することに集中しました。「インクルーシブ」が日常に宿るようにどうデザインするか、日常に棚降ろされた環境は作れるのか、ずっとこればっかり追求して今に至ります。

今でも、私自身も、誰かを想像しきれていないという内省をし、その学習のために、インクルーシブデザイン等を手がかりに活動してきました。そのたびに、私はまた、誰かのことをわからなかったし、新しく知ることができ、私がファシリテーションをする場では、私が一番の学習者であると思います。


インクルーシブデザインでかかわらせてもらった徳島県立博物館に出向いてくれた友人に、Collableのインクルーシブデザインは、配慮が「宿る」んだね、みたいなことを言われたことがあります。

無理に出会わせたりわからせたりするんじゃなくて、偶発的にいいな、と思える。そういうポリシーが仕事の成果で伝わったことは本当に嬉しかったです。


そして「多様さ」に潜む難しさに出会う人が増えた時代になり、だからこそインクルーシブという言葉が広がりを見せているのだと思います。障害分野に限らずいろんなご相談が増えました。一つ一つが同じケースにはならないので、これまでの様々な実践と世界での取り組みレビューなどを引き出しに、いろんな方々とご一緒することができました。

12年目を迎えたCollableは、おかげさまでいろんな実践知、形式知、そして暗黙知がいよいよ溢れかえってきました。この「探求」をもっともっと色んな人達と取り組みたいと、今年度以降は考えています。

実際にこれまでほぼ私の個人プロジェクトのようなものだったものが、ここ数年で「誰かとつねに取り組むプロジェクト」に変化してきました。共有できることが本当に嬉しいし、10年もたてば素晴らしいプレイヤーもたくさんでてきたと感じていて、いろんな領域の人たちとの意見交換が活発になってきました。ますます多様な人の集まりの中の課題解決をしていくべく、仲間づくりと発信、そして引き続き現場にもたくさん出向きたいと思っています。


多様な人たちとうまくやるための取り組み、インクルーシブデザインに限らずわたしたちがお役に立てることがあれば、お声がけください。
そして、このnoteやその他の発信も、これから順次おこなっていく予定ですので、ぜひ追い続けていただけたら嬉しいです。
そしてぜひ、何かしらでご一緒していただけたら嬉しく思います。

なぜか2000人フォロワーを超える(ありがたい…)Collableのnoteでも、リリースだけでなく、みなさんのお役に立てる情報発信をしていくよう活発にうごいています。ぜひそちらもあわせてご覧ください。

あまりに長文な駄文にもかかわらず、ここまで読んでくださりありがとうございました。

山田小百合 / Collable


いただいたサポートは、多様な人たちとの関係性が当たり前にある社会の実現に向けて、Collableに寄付します!