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あいちトリエンナーレ2019の感想または支配可能な国をつくること

あいちトリエンナーレには会期中に行きたいと思っていた。が、まさかの全国紙の一面で展示の一部中止が報じられる事態に、また、それ以前に、国際芸術祭という舞台においてあらゆる国民(の芸術を享受する権利)が侮辱される事態となったので、一刻も早く見に行かねばと思っていた。

しかし、私にゆるされた時間はせいぜい土日の2日間。火が熱く燃え盛っている時に行けば、見たいものが騒動に隠れ、見られない可能性もある。私には現地で無駄にする時間はない。行程のリサーチとプラン、そして事態の様子見に1週間を費やして、お盆の期間に名古屋入りした。(許せよ祖先や鬼籍に入った家族よ、私は前々から来るとわかっている盆の間に墓を参らぬほど冷酷、かつ、何か自分と関係のないものに心燃やされることのある子孫である。)

名古屋駅から1時間ほど地下鉄に乗り、豊田市方面に向かう。豊田市駅から豊田市美術館に向かうには、タクるか徒歩しかない。日傘の下で暑くて死ぬかと思う、その眼前に美術館のある山?丘?がそびえ立つ。冗談はやめてほしいと思う。ただ、意外とタクシーで到着する人は少なく、みんな歩いている、その横並び意識だけを頼りに坂を上りきる。身支度を整え、コインロッカーに荷物を預け、フリーパスを買う。2日以上まわるなら1日券よりお得で、オリジナル手ぬぐいがついてくる。さらに、、ミューぽんを使うと100円引きになる!

展示室へ向かう。いま身体は過酷な気温湿度からも荷物からも自由だ。全身を目にして存分に作品と展示を楽しめる。なんて素晴らしいのだろう。考えるポイントのある作品が多いが、それでも消耗せずに見終えることができる程よいボリュームだ。特徴的な中庭が見え、足が向かう。高橋節郎館の展示もせっかくなので見る。

高嶺格の作品へ導くサインが目に入る。水をたたえた池のある、広々とした庭園を通り(これだけでも眼福、来た甲斐がある。庭のある美術館は最高。10ポイント)、美術館の裏手から敷地外へ出る。旧豊田東高校の校庭を横切ってプールに。話題のインスタ映え作品だが、このサイズの所以を聞くと唸らざるをえない。実物を見て唸るしかないので写真は無し。

豊田市エリアの全貌がつかめないまま美術館を後にし、TPACにたどり着く(というか、何か口にしないともうそれ以上歩けなかった)。カフェ営業があり、大学生?のお兄さんが意外なほど(失礼)美味しいカフェラテを作ってくれる。10ポイント。ナデガタインスタントパーティーの滞在型作品を楽しんだあとは、また炎天下を歩く。

ホー・ツーニェンの映像インスタレーションのある喜楽亭へ。この作品こそ、あいちトリエンナーレのキーになっていたように思う。混雑時は入場制限があるとのことだが、ぜひ多くの人に見てもらいたいと思った。
旅館で“殿様のような”食事をして、飛び立って行った特攻隊員。プロペラに巻き込まれて死んだ、技術ある空軍兵。戦争を賞賛するような教育映画を作り、否定しなかったが自分の作品史には連ねなかった横山隆一。戦後、“無”を抱いて映画を撮り続けた小津安二郎。主に描かれるのは戦史の一端を編む男たちの歴史だ。あわせて、それを縫い合わせる女たちの人生があることも、旅館の女将や兵士の母親の目線から描かれていたように思う。じゅ、いや、20ポイント。

併設の豊田産業文化センターはいかにもバブルな公的施設で、産業と文化を一緒にやっつけようとするところが気になった。白く溶けた銅像が入り口に立っていた。酸性雨という言葉を、小学生ぐらいのときによく聞いたことを思い出した。あれはどこに行ったのだろう。

国が1人の人生、命に与える影響のことを考えながら豊田市駅へ戻る。駅付近の展示では、小田原のどかの、リサーチと立体を展示した空間が印象に残る。何が主で、何が客か。それらは簡単に反転しうる。

暑くて水を飲み続けているのと、作品から受け取ったものもヘヴィで、この日はまともに食べる気がしなかった。名古屋に移動し、ホテルにチェックインしてしばし休憩した。

さて、私は円頓寺へ行かねばならない。まちなかに展示会場のある四間道・円頓寺(しけみち・えんどうじ。全然読めない。)エリアは夜20時まで開場している。歴史ある繁華街エリアで、風情ある建物をリノベーション利用した飲食店も多い。ここで夜まで作品が見られるというのは、旅の者に優しい設計である。5ポイント。
四間道の展示会場には、昼間の熱気が残っている。しかし各会場にはクーラーすらない場所も多い。そこで受付や看視のボランティアの方は、笑顔で迎えてくれる!どうなっているのだろうか、彼らの精神力は?と、作品と関係ないことで神妙な気持ちになり、暑くても真面目に展示を見ることになった。扇風機と、なんか道端で配ってたうちわのありがたかったこと。
あとすでに神みたいな指さばきなのにまだ修行してるユザーン。ずっと聞いていたい音だと思ったのは、クーラー設置の会場だったせいだけじゃないはず。5ポイント。

津田道子、岩崎貴宏のインスタレーションに代表される、エリアの東側、四間道〜円頓寺商店街では家屋や店舗やその歴史を重視した、サイトスペシフィックな作品が多かったように思う。対して西側の円頓寺本町商店街では、キュンチョメによるジェンダーをテーマにした映像作品、弓指寛治が、6児童が犠牲になったてんかんの持病をもつドライバーによる交通事故を追ったドキュメンタリー性のあるインスタレーション、毒山凡太朗の、日本の桜を描いた映像インスタレーションが待ち構えており、見応え抜群だ。でもこのエリアは必見。絶対に見逃してはならない。

毒山作品はみなまで言わない。考えさせる。それでいて間違ったことも言わない。だからむしろ不気味だ。何も断定せず、常にPCに触れないなんて、何も言ってないか、あるいは裏があるんじゃないか?しかし観るものはそんなはずはないと勝手に解釈するし、そうして意見が出てくることこそが作家の狙いだと言う。しかし作品やその何も言わない(一見すると90年代の朝日新聞的リベラルに相性の良さそうな)スタンスの徹底は、邪推すればものすごく非人道的な受け取り方もできてしまう。
実際制作プロセスには軋轢もあるだろうとは容易に想像できる。かれは、慰安婦とか植民地とか、抑圧される側のことを描いている。それはセカンドレイプだし、抑圧する側の姿は見えないので如何様にでも正当化できる。

「ずっと夢見てる」は、必ずしも抑圧された結果とも言い難く、勝手にぶっ倒れてる人もいるはずだが、勝手に日の丸の下で眠らせている、そのいい加減さと手つきが鮮やかで、毒山氏のはぐらかしを見せつける初期作品である。彼の人柄が好かれるから現場や当人の間にするりと入っていけるけど、だから描けない部分もあるのでは。その点キュンチョメや例えばChim↑Pomはめっちゃ意図がある。ごりごりに描きたいものがあって、協力者をいわば利用して共犯にしている。だからむしろ爽快感がある。テーマは重いけど。

ちなみに四間道・円頓寺エリアに晴れた日中移動する際は、名古屋市内のあらゆる会場からタクシーで1-2メーター程度。利用すると、体力がもちます。

2日目、愛知県芸術文化センターに開館間際に入る。展示の一時停止が決まっている作品も複数あった。催涙の仕掛けがある作品難民が命がけで国外脱出するさまを朗読劇として再現した作品など、またしても国と命をひきはがすような表現が多かった。そもそも命は国や、家族に属しているのか

パフォーミングアーツも見ておこうと「幸福はだれにくる」へ。愛知で知らない子供はいないという児童向け劇団と、地点の三浦基と、クワクボリョウタの立体作品のコラボという、カオスな演目。役者は名古屋ことばで演じるのだが、設定はソ連。地点ばりにセリフを繰り返す演出。その周りを舞台装置として、クワクボリョウタの影絵を作り出す列車が走り回っている。。。思い返すとカオスでしかない。しかし私は開始5分くらいで泣いていた。自分が幸せなどひとつも求めてないと気づいたからだ。人でなしのかなしみが、涙になって出てきた。児童劇というのは罪ななりたちをしている。10ぽいんと。。

泣かされたので、フロアが近くてベンチのあったB2Fで座って休もうと思い、加藤翼の映像の前に行ったらもう泣けてしまった。互いの演奏動作により演奏を阻害されあう奏者たち。それでもひとつの曲(国歌と定められた曲)を奏でようとする。音はバラバラになり、曲の体をなしていないが、終わりまで完遂しようとする。どんなに楽器の前から引き離されても、何か音を奏でようと手足を伸ばす。
ミスター・プレジデント、あるいはミスター・プライムミニスター、見えますか、あなたの目には、この人たちの必死の手足の震えが。聞こえますか、あなたの耳には、この途切れ途切れの、しかし進行していくひとつの曲が。
私たちは皆このように、「あいつ足引っ張りやがって」といくらか思いながら、つまり誰かをいくらか支配しようとしながら、それぞれの思う前に進もうとしている。それでできているのが今のこのメロディーだ。美しいと見るか情けないと見るか、それは自由だが、私たちは奏でているのだから、せめて曲として成立させなければならないだろう。でもどうやって???

ちょっと混乱&ヒートアップしてしまったので、一度芸文から出て隣のオアシス21という商業施設で落ち着くことにする。こういうとき商業性は楽だ。お金さえ払えば、泣いてても笑っててもアイスを食べることができる。タピオカ屋には長い列ができていた。若者の中にお金を払ってゴンチャの行列をショートカットする人が居ないのは、品の良い社会だと思った。

芸文に戻って続きを見ていて気づいたが、吹き抜けが暑い。空間が大きすぎて冷房が効かないのだろう。さっきアイスを食べたオアシス21の中庭の地上部分にも、作品が描かれているのが見えた。ちょうどこの日の前後に、30機を日本で運用することになると報じられていた戦闘機のシルエットだ。

名古屋市美術館は、駅から離れた公園の中にある落ち着いた美術館だ。道中の灼熱の陽射しを除けば素晴らしかった。ここはガラスケースなどはバブル以前を感じさせる展示施設なのだが、現代美術作品を工夫して展示してあり、丁寧な作りだと思った。写真の作品以外にも、藤井光今津景アレハンドロ・ホドロフスキー、と盛りだくさんな内容だった。

滞在中、すばらしい芸術祭にポイントを加算し続けていたが、心はずっと泣いていた。わたしは政治的なスタンスを他人に話すなと言われる家庭で育った。だから今回のあいちトリエンナーレの感想を人に話すのは正直、非常に抵抗感がある。しかし最近では、そんなノンポリのユートピアは存在しえないと思っているので、この文章を書いた。何かを守りたいなら、盾が必要だ。私はこの国に(いちおう)生きているし、生きていくための行動をする。人じゃないものを盾に。戦わなければならないかもしれないから。

一方で、私は「うちの家族」という、ノンポリのユートピアで育った経験ももつわけだ。今はもうほとんどない、あの国のことも何かしら著さなければならない気がしている。あるいは、今も私を守り、ある意味で支配する、あの国を作った家族のことを。

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あいちトリエンナーレは、一部展示中止があったことが話題になっています。発端となった展示については検証委員会が構成され、引き続き動向を注視したいところですが、会期はまだ続いており、芸術祭を見るチャンスは残されています。客観的に見て、アーティストによるリアクションとしてなされた(ている)展示の変更の方法は色々のようですし、対話の場が作られたりと、その時その場で見る価値のある芸術祭に、期せずしてなっているのではと思います。作品を見ることはある意味で今の自分と対峙することと日頃から思っていますが、今回もその効能を実感し、自分をリフレッシュすることができたので、自分のものさしを見つめ直してみたい方に、あいちトリエンナーレはおすすめです。

<おまけ>2日間、暑さで食が細っていたけど、名古屋駅の新幹線ホームなどで食べられるきしめんや、栄駅地下街のこんぱるのモーニングは、さくっと頂けてよかったです💯

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