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久しぶりのFacebookで思い出すあの人のこと

最近、同世代の若者がFacebookを更新しなくなったように思う。
私自身も社会人になったばかりの2,3年前に一度更新して以来、すっかり放置してしまっている。
大抵は転職や結婚や、なにか仕事で大きな評価を受けたときのようなタイミングでしか更新しないし、Facebookというメディアは、そういう投稿しかしてはいけないような気さえする。
学生時代は文化祭や成人式、サークル合宿なんていうほのぼのとした日常生活をアップしていたのに、社会人になってからは、そんな気軽に投稿できるようなイベントがなくなってしまった。

そんな今、特に親しいわけではない人間を、ふと懐かしく思い出すとき、Facebookで名前を検索してしまう。それはたいがい、一人で過ごす深夜が多いのだが。
彼らの投稿も私と同様、社会人になってからはほんの数件しか投稿していない。
見慣れた昔の懐かしい写真、そしてたった数件の最新の投稿から、おそらく会うこともないだろう彼らの過去と現在に、勝手に想いを馳せてみる。

昨夜閲覧していたのは、Hさんという、私の大学時代の同級生だ。
彼女は私と同じ、理工学部の建築専攻の学生だった。学業的に低迷の一途を辿っていた大学二年生当時の私は、放課後の製図室の隅で一人、設計課題をこなしていた。
Hさんは製図室でもよく仲間たちとしゃべりながら楽しそうに課題をこなしていた。

製図室にいけば、いつも賑やかな取り巻きに囲まれた彼女の姿があり、そして対角線上の部屋の隅で、いつも私はひとりで設計課題に取り組んでいた。

彼女の耳障りな笑い声が嫌いだった。
笑ったときに遠くからでも目立つ、彼女の八重歯が嫌いだった。
そして、ボーイッシュな格好をしたちょっと美大生っぽい雰囲気が好きだった。
楽しそうに課題に取り組む彼女が羨ましかった。
そしてそれ以上に、夢や目標を見失っていた私にとっては、そうやって輝いている姿は半ば妬ましい思いで見ていた。

その頃、私は彼女と話す機会はなかったが、製図室の入室名簿にいつも書いてある、見慣れたその名前を覚えるようになるまで、時間はかからなかった。

どことなく苦手だが気になる存在でもあったHさんとは接点なく過ごしていたのだが、春休みに学科で行った海外研修をきっかけに、私は異国のホテルで二週間近くも同じ部屋で過ごすことになった。

それは、大学二年生から三年生に上がる前の春休みで、建築専攻の学生を対象に、ヨーロッパ建築を見て回るツアーがあった。希望者はホテルで相部屋にしたい人を申告するように、と言われていて、みんな賑やかに話し合っていたようだった。私は当然相部屋にするような友達が学科内にいなかったので、そのままにしていた。

出発当日、成田空港からルフトハンザに乗った。その機内で隣に座ったのがHさんだった。
「Sさん(私の名前)だよね?うちら、部屋も同じみたいだから。よろしく」
彼女と話す機会が来るとは思わなかった。
お互いに顔と名前は知っていたようで、ごく普通の20歳くらいの女の子のよくある会話のように、ボーイフレンドの話やアルバイトやサークルや勉強のことなど話したりして過ごした。

建築専攻といっても細かくジャンルがあり、意匠、構造、設備と分かれる。
建築を志す殆どの学生は、最初、花形である意匠を志望する。だが寝る間も削るほどの厳しい課題に追われて脱落し、構造か設備に行く学生もやはり多い。
「やっぱりHさんは意匠志望?」と聞くと、彼女は意外にも「設備かな。アーティストというよりはエンジニアになりたい」と言っていた。
Hさんは写真部に入っていて、フイルムカメラで写真を撮るのが趣味だといっていた。だが役員を務めていたそのサークルも今年で辞めるらしい。

その後のホテルの部屋でも、私たちは二週間のあいだルームメイトとして過ごしていたが、マイペースを貫く私たちの生活はまったくのすれ違いが続いた。Hさんは早寝早起きで、11時前には寝て6時半に起きる一方、わたしはまったくその逆を行っていた。
私は、早く消灯してしまう部屋から逃れるように、ロビーに行って一人、毎晩二時間くらいかけて日記を書いていた。修学旅行の夜のように、友達の部屋に遊びに行っておしゃべりしたことも何回かはある。だが、その海外研修のほとんどの夜の時間を、私は、その日起きてから寝るまでの一日の動きを必要以上に詳細に記入することに費やしていた。

「いつも夜どこに行っているの?」と一回だけ聞かれて日記を書いているのだと答えると、「そんなに書くことあるかなぁ、私はネタになることだけメモすれば十分だけど。」と言っていた。
部屋に戻ると、Hさんはもうすっかり寝ている。そして私はいつも、朝ぎりぎりまで起きられない。

同じ部屋で過ごしているのに別々に朝食を食べに行く私たちを見て、オネェぽい男子学生が「Yちゃん(=Hさんのこと)と仲良くしてあげなよ」と言われた記憶がある。

そんな感じで彼女とは、帰国してしばらくはすれ違ったときに挨拶くらいはしていたが、それもだんだんしなくなっていった。

彼女に最後に会ったのは、私が大学院の中退手続きをしに久しぶりに研究室に行ったときだった。私たち建築系の5研究室は大きいワンフロアのへやをみんなで分け合っているので、隣の研究室の人が自分の向かいにいたりする。

本来ならば大学院の修了式であるはずだったのだが、修士論文が書けなかった私はただ中退手続きのために、最後の登校をしていた。

机の中の荷物を整理し、要らない資料を捨てる。要らないものしかない引き出しの中や、PCの中のデータも必要なものだけクラウドに移して、PCを初期化する。久しぶりに立ち上げるデスクトップPCは動作が遅く、いつまでも初期化が終わらない。
もう二度とここには来ないで済むように、きちんと初期化するのを見届けたいのだが、動作が遅すぎて痺れを切らし、机突っ伏して寝ていた。
声を掛けられたのか分からないが、ふっと顔を上げると、Hさんがいた。そして久しぶりに見た彼女の顔は私が記憶していたものよりも、落ち着いた、普通っぽい雰囲気になっていて、そういえば、私の中での彼女の記憶は、美大生っぽい雰囲気だった20歳の頃のままだったんだと気付いた。あのころから平等に時は流れ、私たちは25歳になっていた。
私はしばらく学校に来ていなかったので、久しぶり、みたいな挨拶をしたあと、「私、結婚したの!」と言って、結婚を発表した芸能人がよくやるような、手の甲をこちら側に見せるようなやり方で、左薬指に光る指輪を見せつけていた。
その時は素直に「おめでとう!」と思ったし、そういった。その瞬間だけは、そうやってやり過ごした。そして私はそのままPCの初期化を待って机に突っ伏して睡眠に戻った。

私と同じように大学を卒業して20代半ばくらいで結婚する子たちのフェイスブックの苗字はあっさりと変わっていて、最初は見なれ無かったそれも、じきにそれが彼女たちの名前になっていく。
実際に自分が結婚するかもしれない立場に来ると、そんなにいとも簡単に生まれてからずっと付き合ってきた名前を捨てられるんだな、と思う。

彼女は博士課程在学中に結婚し、休学して去年娘を出産した。
休学期間は一年だったはずなので、今年の4月から大学に復帰しているはずだけど、このコロナ禍でどうしているのだろうか。

金曜の夜、ぼんやりとした頭で、酔えないお酒を飲みながら、そんなことを考えていた。

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