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万引き家族を観て久しぶりにメソメソした感想

久しぶりに映画を観てメソメソした。
考えさせられた。だからここに記すことにした。


前情報ナシで、なんとなく何かの賞を獲ったとか、テレビ放映もどうやら話題になってたとか、そのくらいの知識と、映画の名前がなんか気になるってだけで録画してたのをさっき観た。


以下、ネタバレあり。



この誰も救われない終わりよ。
もちょっと何か救われるのかと思いきや、何にも救われない。唯一よかったのは、ラスト面会しに行った安藤サクラが、私楽しかったからさ、とニカっと笑う姿くらいかな。彼女は拘置所で色々冷静に考えたんだろうね。


本当の家族や、本来あるべき生き方に戻った後の皆んなの孤独さったらもう。。特に少女リンのラストの姿とかなんなん。本当の居場所に戻ったのに、ひとりぼっちで、かつて擬似家族と過ごした思い出のビー玉集めて遊んでるってなんなん。

そんなわけで涙腺が壊れましたが、でもこの涙も何の涙か分からなくて考えさせられた。


可哀想だね、じゃないし、悲しいね、でもない。
やるせないよね、なのかな。今後の彼らについて絶望しか感じない哀しさなのか。どうなのだろう。


シンプルにただ一緒に生きて、暮らして、笑顔だったり安心感を欲しいだけなのに、一緒にいるための理由、血の繋がりだとか家族という書類上の囲いがないと一緒にいられない。でも愛情や友愛、親愛だけでも生きていけない。お金も必要で。綺麗に生きることができない。

親から存在を捨てられたり、居場所を奪われたら、こんなにも呆気なく人生は転落していくものなのかと見せつけられたような気もした。


小さな子供が万引きしながら生きていこうとする姿は観ていてつらかった。そうするしか居場所をそこに創れない。殺伐と生きていく姿に胸を打たれた。だがショウタが成長するにつれ、盗むことへの疑問と本格的な葛藤を抱え出した時、大人たちが曖昧にそれを誤魔化したあたりから、この生活の破綻の綻びの芽は出ていた。
 
ショウタがリンに盗みをさせなかったのは、本人なりの生まれながらに持つ善良心だったのだろうか。決して駄菓子屋のおじいちゃんにダメだよと言われたからではないはずだ。

生まれながらに、で言えば、リンの相手を思いやる優しさもそうだった。虐待を受けて育ったにも関わらず、傷ついたひとの体の傷みにも心の傷みにも敏感で、そっと触れて慰めようとしていた彼女の無垢な優しさ。あれもまた生まれ持ったモノだったのか。もしくはかつて生きていた祖母からもらったものなのかもしれない。

とはいえ、終始さみしそうで辛そうで面白くなさそうで樹木希林に依存していた松岡茉優の姿は、もしかするとショウタとリンの、あのままあそこで過ごした場合の将来を匂わせていたようにも思う。


二人の子供たちを誘拐して愛情を注いだものの、彼らは樹木希林ほどの愛を二人に注がなかった、いや注げなかった。注げなかったからショウタは最後まで安藤サクラをお母さんと呼べなかった。優しくしてくれるおばさん止まり。

とはいえ、樹木希林にとって松岡茉優は前の夫と血が繋がった孫だから、特別に可愛がることができたのだろうし、松岡茉優の家族からもらったお金も使わずに取っていたのはそういうことだろう。そしてそこにあったのは単純な愛だけではなく、前夫への執着心もあったに違いない。

血が繋がってないからこその絆はあっても、関係性の繋がりがゼロだと、いざという時それはとても脆かったのも、この映画終盤の哀しさだった。

ショウタのことがバレた時、夜逃げしようとしながら後で迎えに行けばいいよねと安藤サクラが言い訳ごちていたが、夜逃げがうまくいったとしても、やはり理由をつけて迎えにいかなかっただろう。


たとえ愛情はあってもいざという時、自分の身の方が可愛い。他人は他人なのだ。そのへんが家族を超えた何かになりきれなかった部分で、安藤サクラが、うちらじゃだめなんだよとリリーフランキーに言った心情を裏付けた想いとは、自分のそういった弱さと狡さ、都合がいいだけの愛に気づいたからなのか。

それでも、樹里をリンとして育てる覚悟をした時の安藤サクラは脆いけどたしかな深い愛情があったとも思う。ただそれは、親としての愛ではなく同胞としての慰めに近いモノだったのかもしれないが。

リリーフランキーとショウタの最後の夜にしても、リリーフランキーは自分から普通のおじさんに戻る宣言をしてはならなかった。あれもまた自分の弱さから逃げたのだ。ショウタを切り捨てようとしたことを恥じて、父親役を降りることで大人の体裁を取り繕ったのだ。


どれだけカッコ悪くて弱い自分でも、お父さんを名乗ることを自分から降りてはいけなかった。それをすることでショウタが傷つき、更なる孤独に追い込まれることを、果たして想像することさえできなかったのだろうか。これもまたとことん浅はかで、自分のことしか考えていない結果の侘しさ。

バスの中でおとうさんと口パクしたショウタ。
自分を置いて逃げようとしたおじさん。それでも、それでもきっと、存在としてリリーフランキーにお父さんでいてほしかったのだろうな。


感想を書けば書くほど救いようがなく哀しいのだが、書いてるうちにひとつだけ見つけた希望がある。

それは、曲がりなりにも、擬似家族から得た愛情表現の経験が、今後のリンの人生で、愛されることの指標として活きてくるタイミングがきっと来るのではないかということだ。そうであってほしい。

家に戻された後、毒親からごめんなさいは?と理不尽に強要されても、もう謝らなかったリンの姿がその未来をそっと窺わせたように思う。


それでも生きていかねばならない。

生きていかねばならない。


その中で、誰かにもらった愛情と優しさをどれだけ自分の中に残すのか。本物の親じゃなくてもいい。誰でもいい。その微かな希望を抱きしめて離さなかった人だけが、きっと何とか生きていけるのではないか。そんなことを思った。


ああ、哀しい。



 

文章を書くことをどうにかして夢に繋げられたらなと思っているのです。 頑張ります!