容姿コンプレックスという沼


私にとってルッキズムが蔓延る現代はとても生きにくい。

容姿コンプレックスの芽生え

自分の見た目が不細工だと気づいたのは早い時期からだった。なんてったって父親が、幼少の頃から私のことを不細工という意味で「ブーちゃん」と呼んでいたから。私は不細工なのだなと。
いつからかそんな風に呼ばれることも無くなったけど、私はそう呼ばれていた時期が確かに存在していたと認識している。

ただ、その時期に抱いていたものを容姿コンプレックスというにはまだ至っていなかった気もする。

容姿コンプレックスの成長

私のそれが容姿コンプレックスに開花したのは、高校1年生の時だった。
秋の初めの頃に、肘の辺りまで伸びていた髪を肩に微かに当たる程の長さまでバッサリ切った。その辺りからだったと思う。クラスの男子3人の視線を感じるようになった。感じていた視線はやがて、音とともに私の耳に響くようになる。どうやら私の容姿をコソコソと話しているようだった。

それはいつ、どの授業の時も突然訪れる。私はそこに目を合わせたくなくて、声が聞こえていても、視線を感じていても決してそちらに目をやることは出来なかった。ただ、耳はきっとダンボの如く開いていたし、目線は黒板にあっても、視界の隅にはいつもアイツらがいた。

私はある時、それに耐えきれなくなって初めて学校を休んだ。3年間皆勤で通学してやろうという高校初日の意気込みも虚しく、私はアイツらに大敗した。

学校を休んだ日、ばあちゃんに全部話した。学校を辞めたいとも言った。ばあちゃんは泣きながら「〇〇ちゃんは不細工じゃないよ。顔もちっさいし、目だっておっきいし、鼻だってばあちゃんみたいにぺたんこじゃないやんか。そんなん気にしたらあかん。負けたらあかん」と。私はそれを、前半の言葉は全部嘘だと決め付けて、後半には負けるなと言われたことがショックだった。高校は義務教育ではないのだから、辞めさせてもらえると思っていた。こんなに辛いのだから。どうしてばあちゃんはこんなに辛い思いをしている私をまだ学校に通わせようとするのか、この人は何も分かってくれない、と思った。

結局、当時仲良くしていた友達に話すと、その子が担任に事情を説明してくれたらしく、担任から呼び出された男子3人は担任から何を言われたのか、そこから私に視線を飛ばすことも、コソコソ話すことも無くなった。2年、3年のクラス替えは担任の計らいなのか、その3人と再び同じになることは無かった。当時のアイツらから謝られたかどうかは、覚えていない。

それから私は再び学校に通うようになった。ただ、高校初日に掲げていた皆勤賞の目標などは散り散りになり、不真面目な登校頻度を繰り返して、文化祭などにも一切出席しなかった。おかげでギリギリの単位で正式な卒業式とは別の、お情けの卒業式にて、高校を卒業した。

この最悪な経験を経て、私は強く容姿コンプレックスを抱えることになってしまう。

性格の歪み

夜な夜な自分の容姿の醜さに絶望して何時間も泣いたり、たまに私を可愛いと評価してくれる人がいても、それを素直に受け入れることができなくなった。それら全て建前で、本音は皆私を醜い化け物だと思っている、と思う他どうしようもできなくなった。

実際、そうなのだ。一重瞼に小さい口、狭すぎるおでこに、不揃いの歯、眼鏡がずり落ちる低すぎる鼻、面長の輪郭、容姿の欠陥を上げ始めるとキリがない。というより、きっと全てが欠陥しているのだと思う。褒められるようなところは、自分では見つけられない。
容姿コンプレックスはやがて私の性格にも酷く影響し始めた。元々根暗だった性格には拍車がかかり、鬱陶しいほどに卑屈で歪んだ性格が形成された。

友人間での写真にも抵抗が出始め、グループLINEでは、そんな私のせいで「この写真インスタに載せてもいい?」と聞く流れも生まれてしまう。

私は私を、醜い化け物だと思っている。
いくら誰に何を褒められても、きっと自分の中での自分の容姿への認識は変えられない。100回褒められても、高校の時の記憶が蘇ると全てその記憶が上からのしかかって、上塗りされてしまう。

容姿コンプレックスという、抜け出せない沼

私はこうして、見た目も中身も歪み切った醜い化け物になってしまったのだ。恨んでいる。あの3人のことはこの先も一生忘れないし、名前も顔も何もかも記憶に染み付いている。どうにか不幸な人生を送って欲しいと心底願っているけれど、その内の1人はもう妻帯者になり、子供を持つ親になっていた。どうか、諸共苦しんで欲しい。

醜く生まれた私が悪いと分かってはいても、今のこの歪み切った私が生まれてしまったことは、あの時の彼らのせいにせずにはいられない。



来世では、どうか人間に生まれませんように。

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