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とりとめもまとまりもない話。




上京して8年、ほぼ毎週、週に一回東京の母方の祖父母のお宅訪問をしている。

当初はたぶん、月2回隔週で顔を出す程度だったと思う。祖母が夕飯を用意してくれていて、一緒に食卓を囲む。一緒にテレビを見る。ただそれだけ。


母方の祖父母は今も昔も東京在住で、わたしは家族と共に父の生家である他県の山奥に住んでいたので、一年のうち、母方の祖父母と顔を合わせるのは年始と夏休みくらいだった。

物凄く言いづらいことではあるが、わたしにとって家族とは「共有した時間」に拠るところが大きい。思い出があること、同じ環境を共にして、根付いた感性が近いこと、そういうところに違和を感じないことがわたしにとっての家族だ。血縁だからと言って、身近に感じることは難しい。

特に母方の祖父は頑固で、自分が正しくて、素直じゃなくて、肯定が得られなければすぐに拗ねる。
男は台所になど入らないし、子供は言うことをきくもの、という古いひとだ。

小さい頃は会うととにかくお小遣いをくれたけど、わたしはそれが苦手だった。「上からお金を降らすみたいにくれるのが嫌だ」と母に勇気をだして相談したことがある程度には、親しみのあるお小遣いではなかったのだ。

勿論当時のわたしにだってそれがただの愛情であることはわかっていたけれど、だったらお小遣いじゃなくて柔和な対応がほしかったな、と今でも思う。

早く帰れとか、生きてたのか、とかぶっきらぼうに言う。通訳すると、遅くなると危ないから早めに帰りなさい、久しぶりだね、と言っているのだとわかるけど、わかるけども、言われた方はやっぱりちょっとしんどいわけで。

人見知りで、ほぼ他人と認識している祖父とはほとんど会話もしないまま、大人になって、上京して、突然、祖父母とわたしの3人の週末の家族団欒イベントができたのだ。

隔週で顔を出すようになると、予定があって行けなかった翌週は何しに来た、帰れ、生きてたのかと言われた。たぶん寂しかったんだと思う。

前髪を伸ばせば目にかかってうっとおしいから切れだとか、ロングスカートは長すぎてみっともないだとか
、お気に入りのワンピースを着ていった日には、着るものがないのか可哀想に、だとか。

憎まれ口がデフォルトだとわかっていても、耐えきれない時もあって。その度帰り道で母にメールして祖父の愚痴を言ったりした。

ある時、連日愚痴を言いすぎたのか、母から「あれでも私のお父さんなの。悪くいわないで」と言われたことがある。
母に報告するのをやめた。母の言い分もわかるし、愚痴ばっか言うのもなんか人間としてよくないか、と思ったのもある。

じゃあどうすればわたしはしんどくないんだろう。なるべく祖父が思う通りの孫でいればいいんだろうか。1週抜いただけで生きてたのかって言われちゃうならもう、毎週行こう。

通い続けて3年くらいたったころ、祖母の様子がなんとなくおかしいことに気づいた。しっかりしてて、丁寧な祖母が鍋を焦がした。冷蔵庫が開けっ放しでピーピーなり続けることも増えている気がする。その程度と思うかもしれないけど、わたしは始まったと思った。

わたしは父方の祖母の認知症の進行に一役買ってしまった後悔がある。もともと同じ話をたくさんするひとだったし、反抗期だったのもあって話をよく無視した。もう何度もきいたよと怒鳴ったこともある。認知症だとわかったのは祖母が鬱になってからだ。

突然信じられないほど怒って、直後に泣きわめき、殺されると言い出してそこではじめて、これは病気なのでは?と思い至った。

一緒に暮らしていて、いつも変なことばかり話していたし、わたしの名前もしょっちゅう間違えるし、だからそういう人だと思って接してしまったけど、違ったのだ。病気だった。本人にはどうにもできない脳の異常だったのだ。

認知症で同じことを何度も言う場合、否定をすると進行が早まるのだという。早めに気づいて、正しく処置し対応すれば、進行はその分遅らせることができる。
どんな病気も早期発見が重要なのだ。

そんな後悔もあって、わたしは次は失敗しないようにしようと思っていた。だから東京の祖父母宅で、どんなにムカついても、会話のない食卓でも、いつもどんな感じかを知っておくことが目的なのだと卓を囲んだ。

祖母に明確ではないにしろ違和を感じて、すぐに母に連絡した。母は連絡を受けて、祖母と電話で話したり、帰省したりして確認にきた。

だけど認知症というのは症状に波のある病気だ。いつもと違うことがあれば、気が張っていて症状がでにくい。母と接しているときは滅多にない娘の帰省ということもあって、いつも通りの祖母である日々が続いた。

もともと天然なのよ、と母に言われて、娘が言うならそうなんだろうなあと納得して、もう黙ることにした。祖父にはうちの奥さんを老人扱いするなとしこたま怒られた。

それでもやっぱり、ときどきぞっとするほどわたしの知ってる祖母じゃない瞬間があって、怖いなと5回思ったら母に報告を入れるようにしていた。

これは祖母のもともとの性質なのか、認知症の初期症状なのかとひとりでモヤる一年を経て、祖母の糖尿病が悪化して、飲むべき薬が飲めていなかったことが判明した。薬を飲むのを忘れていたのだ。

薬を飲んでいなかったことと、わたしが一年間ちょっと変だよと言い続けていたことが重なって、認知症で祖母を病院につれていくことになった。

そうしてようやく、狼少年みたいな、心配しすぎみたいな目で見られる孤独が解消された。

今はもう祖母はほとんど料理をしない。配達されるお弁当があって、日曜日だけはお弁当がお休みなので私が食事の支度をしに行く。

今ももちろんしんどい時があるけど、週に一回ご飯の
支度をしに行くのは介護と言えるほどの作業量でもないだろうし、大変だと大声では言えない。

祖母が変なことを言い出したり、祖父がそれにイラついたり、祖母の血糖値を測ったり、管理できていない冷蔵庫の中身や手紙などを確認したり・・・そういうのしんどかったら無理しなくていいよと母が言ってくれるようになった。

だけど正直しんどくても自分は行くんだろうなと思う。

父方の祖母のことで後悔してなくても。もし、母方の祖父母のことで母が後悔することがあれば、それは距離だ。すぐには駆けつけてあげられないって思うと思う。

それで、もっと近くに暮らしてたらなあってわたしの父にこぼす日が来るかもしれない。それって父にとっては悲しい一言なんじゃないかなと思う。

嫁いだ事を後悔するってことになるんじゃないか。
もともと母の父は結婚を反対していたそうだし。

わたしはその、そういう空気がとにかく嫌で。そうならないようにしたい。祖父母の葬式で、そういう、ああすればこうすればっていう後悔の中に、あんな田舎に嫁がなければっていう後悔がミリでも顔出したらやだなって思う。思ってなくても、つい口をつくこともあるし。

少なくともわたしは自分の育ったあのド田舎が嫌いじゃないのだ。

だから母がここにいたらできることを、かわりにわたしがやっているだけ。祖父母に対しての情があるわけではない。打算的で偽善的な行為である。それについては薄情で申し訳ないとしか、言いようがない。

ときどき気持ちが迷子になることがある。
母のためなのか、父のためなのか、祖父のためなのか、祖母のためなのか、それともこれは自分のためなのか。

できること、した方がいいことをしないのは勇気がいる。投げ出せない。サボったら行きたくなくなってしまう。続けているから辛うじて大丈夫なだけなのだ。

迷子なまま基本は普通に生きていける。だけど、ときどき迷子だと自覚する時がある。

今日はそんな感じの雑記。纏めるつもりのない。頭の中をそのままの取り留めのない話。