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ビジネス会話改造論6~アンコールと無礼講

『月刊機械技術』に連載しているコラム。雑誌では、ページの都合で元原稿が少し短く加工されています。そこで、雑誌の了解を得た上で元原稿をUPしています。今回は3月号(第6回「アンコールと無礼講」)分です。
途中までなら無料で読めます(定期購読マガジンの方は全部読めます)。

現在出ている4月号には、次のコラム(第7回「今回という言葉に込められている意味」)が載っています。
書店で手に入ります。読んでいただけると嬉しい!

では、3月号掲載【アンコールと無礼講】の元原稿をどうぞ。

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ビジネス会話改造論 
6(アンコールと無礼講)

誰でも、一度や二度はコンサートに行った経験があるだろう。最後の曲を歌手が熱唱し、感動のエンディングを迎える。観客の盛大な拍手に送られて、歌手とバンドはステージから退場する。ステージの照明が暗くなる。

だが、そこで席を立つ観客はいない。拍手はやがて、みんなで同じリズムを刻むようになる。それに促され、無人のステージが再び明るくなり、歌手とバンドが再登場。アンコールとなる。

非常にカッコいい場面だ。だがしかし、私たちは知っている。現実には、   歌手は最初からアンコール曲を用意している。
   観客もそれを知っている。
   観客が知っているということを、歌手も知っている。
   しかし、お互いに「それは知らないことになっている」ということを、お互いに知っている。
…という、非常にややこしい、メタ・フィクションみたいな構造になっているのだ。その上でアンコール後は、
 観客は、サービスで歌ってくれた歌手に感謝する。
 歌手は、アンコールをしてくれた観客に感謝する。
 こういう特別な場に参加できたことを、全員で嬉しく思う。
…というところまでがセットなのだ。お互いがそれぞれの役割で演技することによって生まれる高揚感。共同演技型感動とでもいうのだろうか。

 ビジネスの場でも、これによく似た構造がある。部署で行う宴会で、集まった部下たちに上司がこう言うケースだ。
「今日は無礼講だ。おおいに飲んでくれ」
この言葉をそのまま信じる人はいないだろう。

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