死生観
どうも、いきなりテイストの違うことを書き出す奴です。
つい先日、親戚の訃報が届きまして、突然のことに驚きやら悲しみやらで心がざわついて、そこからしばらくずっと頭がモヤついていたのですが、少し落ち着いて来たこの機会に、今の自分の死生観について書き留めておこうかな、なんて。
死生観 といってしまうとワードが大きすぎて取り止めもないことしか書けなさそうだけど。まぁ良い。記録。
私はそもそも死とか生とかそういうことについて、恐らく小さい頃から、周りの同級生と比べても比較的強く意識してきたように思う。実際のところは分からないけれど、そう自覚してこれまで生きてきた。
で、割といつも、今この瞬間すらも、人はいつ死ぬか分からないと本気で思っている。私のことも、他人のことも。
生まれてきたことに意味なんてないと思うけど、生まれてきたことを幸せに思っている。
死にたいと思ったこともあったけど、死ななくて良かったと心から思っている。
死のうと思う人を止める権利はないけれど、死ぬのは色んな世界を知ってからでも遅くはないんじゃないかと思っている。
狭い家のなかで、
窮屈な教室のなかで、
ちっぽけな会社のなかで、
もし死にたいと思っている人がいたら。
腕ひっつかまえて、すぐにそこから出して、頼まれてなんかいないのに、この世界の広さと素晴らしさを伝え続けるお節介なオバさんになってやろうと思っている。
この人生のうちにやりたいことがたくさんあるから、まだ絶対に死にたくないと思っている。死への恐怖というか、嫌悪感というか、とにかくまだ、迎えに来ないでくれ!と常々思っている。
いつ死んでも良いような毎日を、なんて思わない。死んでたまるか、と思っている。
1日1日を大切に、みたいな綺麗な言葉を本当は言いたいけれど、正直言うと大切にできない1日があったって良いじゃないかとも思っている。でもその1日が最後の日だったら、と思うとやっぱり辛いので、極力大切にしていきたい方向性ではある。
死ぬことは辛いけど、生きてても辛いことなんて山のようにある。
でも、死んだら終わり。
痛みも悲しみもない。終わり。終了。無。
あの世で大切な人を見守れるかどうかなんて分からない。死んだことないし。
天国があるかなんて分からない。死んだことないし。
死後のそれについて、どんな世界を信じたって良い。天国も地獄も生まれ変わりも、あるかもしれないし、ないかもしれない。
でも、少なくとも、「私」という人生は、死のその瞬間を持って、終わる。それだけは確かなことだと思っている。
「生きてるだけで丸儲け」「命があるだけで幸せ」なんて、そのとき辛いことに直面している本人以外は絶対に言ってくれるなと思っている。周りが当人に向かって励ましで使ったりする言葉じゃないと思っている。
「あなたが死のうとした今日は、誰かが生きたかった明日なんだ」みたいなあれも同じく。うるせえ黙れ と思う。みんな自分の人生を生きてる。自分なりの辛さを感じで生きている。その痛みは他人と比較できるものじゃないし、誰かの気持ちを背負って生きなきゃいけない責任なんて誰にもないと思っている。
自分が死んでも世界はなにも変わらない。
かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
繰り返すけど、人生に意味なんてない。
生まれてきたことに意味なんてない。
生きなきゃいけない責任なんてない。
死んじゃいけない理由なんてない。
誰かのための人生じゃない。
だから自分は、自分のために生きる。
生きるという選択をしていることを正解にするために、生きる。
生きることを楽しむために、生きる。
生まれてきたことを喜びたいから、幸せをたくさん探す。見つける。感じる。掴み取る。
人生100点で死にに行く。
そんな感じ。
なんか分からんけど、そんな感じです。
あ、ちなみにこういう話「真面目だね」とか「かたいね」とかなんかそういうテイストで揶揄ってくる奴のこと、大体嫌いです。
勢いで書いた。9分。
やればできるタイプ....!
10年後にでもこれを見たら、また変わってるかな。それもまた愉しみだな。
生きる愉しみ。
2024.1.26
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