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優しさも美しさも自分次第。

照明のリモコンの好きなところは、消灯のボタンを押すと徐々に明かりを暗くしてくれるところで、エアコンのリモコンの好きなところは、暗闇の中で停止ボタンをほのかに光らせてくれるところだ。
こんなふうに顔を知らない、どこの誰かも知らない人の小さな優しさや気遣いには静かな感動がある。

寝る前に毎回このことを日記に書きたい、と思うけど、いかんせん寝る前なのでもう日記は書いてしまってるし、次の日の日記を書く頃には忘れてる。
今日やっと書けた。


今日読んだ本。

黎明のやわらかな陽光の下、うっすらと朝霧がかかり、視界は茫洋として定まらない。まだ眠りから覚めやらぬ温泉街の向こうには、白神山地のゆるやかな稜線が白くかすかに煙っている。ときおり風がきらめいて見えるのは、透徹した朝の日差しが霧の雫に反射しているためであろうか。かすかに風が流れ、ときに光が躍る。

父が神様のカルテシリーズをはじめ夏川草介さんが好きで、たまに貸してくれるのど読む。
神様のカルテもそうだけど、この作品も偏屈で独自の理屈を持って我が道を行く人が出てきて面白い。
私もこんなふうに、まじめに聞いたら偏見にまみれてて愚にもつかず、筋が通ってないようにみえるけど、なんとなく理屈が通って聞こえるような、そんな屁理屈を捏ねてみたい。
そうして呆れられたり黙らせてみたい。
弁が立つ人って面白い。
夏川さんはそんな人を書くのが上手い。

夏川さんはそんな偏屈な人を書くのが上手いだけじゃなくて、自然の描写も上手で、読んでいると草の匂いや風が頬を通り過ぎていく感覚を追体験できる。

読書歴は長いけど、自然描写を楽しめるようになったのは割と最近だ。
それまでは自然描写が出てきてもどこか上の空で読んでいた。
読んでも頭の中で像を結べずに、ただ文字の塊として流れていくだけだった。
それが『老人と海』の書評を読んでから、ちょっと一回まじめに自然描写を読んでみようと思い、読んでみたらわかるようになっていた。
それまで流し読みしていたのがもったいない。
いつからこんなふうに自然描写も読めるようにわかるようになったんだろう。
実際に自然の中に身を置いて、その美しさを五感で感じて、その記憶がある程度蓄積されてきたから、そこからいつでも引き出せるようになったのだろうか。

美しい自然を描く文章は、自然が美しいというだけではなくて、文章自体が美しい。
美しいものはそこにあるだけで美しいのではなくて、見る側の感性がそれにむけて開かれていないとその美しさを感じることができない。
美しいものを美しいと思えるようでありたい。

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