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それぞれのキャパシティ


「キャパシティ」
自らが持つ能力で請け負える量、入り切る容量、受け入れることのできる数や量のこと


日常を過ごしていると忘れがちになるのですが、キャパシティは人それぞれ異なる。そして分野や場面によっても異なってくる。

けれど時に、その最も身近にあり理解しているはずの「自らキャパシティ」を疑い否定してしまう時があります。

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例えば自分のキャパシティが【100】だと理解してしているけれど周りの人々のキャパシティが【200】だった場合、往々にして自分もそれだけのものを受け入れなければ!受け入れられる!と錯覚しパンクしてしまう事がある。

もちろん少しずつ自分のキャパシティを増やしていく訓練や努力をする事は必要であり自己成長に繋がる。しかし、周りの環境に左右されて明らかにキャパオーバーな事柄を請け負ってしまうことが正しいとは思えない。

ですが、日常ではわりと頻繁にそんなことが起きてしまっている気がするのです。上記の【100】や【200】を日常の仕事や努力している事柄なんかに置き換えてみると分かる。

【わたしが行うと30分掛かる業務】を「【みんなは15分で終わらせている】からその段取りで進めてね」なんて言われても、そもそも自分のキャパオーバーなのだ。

そこで「なんでこんなに時間がかかるのだろう」と原因や改善策を考え成長しようと努力することはもちろん重要だが、「わたしはダメなんだ」と自分を否定する必要はないと思うのです。なぜなら、「キャパシティ」は人や事柄によってそれぞれ異なるから。

一方でそんな自分でも、他の場面で周りの人より秀でたキャパシティを持つ時があるかもしれない。いや、きっとあるのです。

ただここで伝えたいのは、「まわりと比べて自分のキャパシティが優れているかどうか」とかそんな優劣や競争ではなく

ごくシンプルに、誰もが自分のキャパシティ以上のものを抱えて困っている時に「助けて」と言える環境が当たり前になればいいのにな という事なのです。

だってそもそも「能力」とか「キャパシティ」って誰かと競ったり優劣をつけるためにあるものではない。目の前の人の為に自分のそれらが生かせるのであれば、まさしくその瞬間が本領発揮する時だと思うのです。

だからこそ私自身もまわりの人の「助けて」の声に耳をすませて、自分のキャパシティが空いているものならば躊躇うことなく「手助け」が出来る自分でいたいと思う。

お互いがお互いの「キャパシティ」を認め合い補い支える事が出来る環境ってめちゃくちゃ素敵ですよね。


sayamo

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【関連note】


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