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ドライブ・マイ・カーを見て

話題になっているので、濱口竜介監督のドライブ・マイ・カーを私もみてきた。3時間半くらい?そりゃ時間も増えていくというような風景のうつりかわりも丁寧に描かれる、ロードムービーでもある。

村上春樹の原作は後ほど読んでみようと思うが(以前読んでいるはずだが、運転がうまい女性のことくらいしか思い出せない)所感をメモ程度に書く。

ネタバレになってしまうが、家福がみさきと一緒にワーニャ役を引き受けるか考えるドライブをするところで、何度も何度も、車の後景(うしろに流れていく風景)が登場する。トンネル、フェリーに乗るところなどが印象的だったが、後ろを振り返るように、あるいは過去から追いかけられているように。普通だったらドライブする風景は、フロントガラス越しの前に進む風景だと思うのだが(実際、映画の前半ではそのような風景が多かったと思う)、うしろに流れていく時間が執拗に登場する。生きなくちゃいけない、でも前に進んでいても、生きるとは来た道を見つめることなんだと思う。やっと前に進めそうで、演技を褒められた瞬間の高槻が、過去の行いに引っ張られてしまうように。

やはりドライブ・マイ・カーは自分の人生をドライブするということ。わたしの車、わたしの時間や記憶。わたしの過去を共有し、ほかの人に差し出すことさえできる。家福の赤いサーブ(原作は黄色いサーブだったと思う)をみさきが別の地で自由に乗り回し、切り開いていく。

この映画はもちろん、言葉とコミュニケーション、信頼関係の物語でもある。言葉を交わすことでしか理解しえないと信じ、言葉が欲しい私たち(死者のことばすらほしい)。でも言葉を交わしても理解できない(セックスがそのコミュニケーションの最たる例となっていて)、言外のコミュニケーションを信じ、信頼関係を紡ごうとする。言葉に現れていなくても、自分が感じたそれが正しいんだと思う、と言うみさきが真実だとわたしは信じたい。他者とのコミュニケーションも、関係が徐々に変化していくパートナーとのあり方も、古い車と自分の変化する身体みたいにただただ変容して、そして生きていかないといけない。

#映画 #ドライブ・マイ・カー


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