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面白いくらい自分に必要な過程を体験させられる

先日、施術の方の弟子仲間で、同じく真言密教徒(別のお寺)の方とシーシャ吸っておしゃべりしてた時のこと。

”同じ真言密教なのに、全然修行の過程が違うね。”

僕の今のお寺との出会いは24歳の時で、約1年間、塾生として勉強させていただき、25歳になって出家得度をしました。

塾生の時は、まず座学から。
真言密教の歴史などを学んだり。

在家でできる勉強をした後に、
「これから先は得度しないと教えられない」と言われて、
速攻で「はい、やります。お願いします」でした。

得度してからは、師僧が高野山の巴陵院というお寺や根来寺で修行してきた内容で、座学(教相)と実技(事相)を指導していただきました。
作務や朝勤、お経の意味や読み方、真言の印、所作、などなどです。

これが、面白いことにしっかり教育プログラムのようなものがあって。
この段階の行をこのくらいやった上で師僧に見定めてもらって、次の行に進める…といった感じで、修行の段階を追っていくのです。

不思議なことに、なんの才能も持ち合わせていない僕が、師僧から教えられた通りに、決められた回数を重ねていくことで、不思議と成長していることが実感できるのです。
(別に霊が見えたりはしません)

特に感じたのは、観想。
簡単に言うとイメージ力みたいなものです。
今まで曖昧だったイメージが、修行を重ねていくことで、輪郭を持って、匂いを感じて、肌で感じて、音として聞こえてくる…みたいな。

その観想も、毎回完璧にできるもんじゃないんですが、そういう境地に入れる瞬間があるんです。

仏と自分が一体になることを「入我我入」というのですが、その体験が本当にあるんです。
長く、丸暗記もしてないようなお経を、いつもだったらめちゃくちゃ集中してても、ちょっと突っかかってしまうような感じなのに、口が勝手に唱えている。
体の微妙な揺れを感じなくなったり、眼球の移動がスムーズになったりと、本当にいつもの自分のパフォーマンスを明らかに超えている状態。

「もう一回感じたい」

そう思った瞬間に、いつも通りの僕に戻るのです。

この『作為』という『自我』が無くならない限りは、入我我入できないんですよね。
入我我入ができて、仏様のお力をもれなく引き出せる…。

その為に、僕ら僧侶は修行を重ねて力を開発をしていくのだと思います。
(だから修行に終わりってないんですよね、一生修行)


という形で、僕の場合は座学から実技へと、順々を追って修行をここ数年行ってきたのですが、施術の弟子仲間でもある真言密教徒の木内さんは得度して間も無く1人、実践の現場に出されているとのこと。

僕は今まで加持祈祷をメインに修行してきて最近になって葬儀(故人に対する祈祷)を修行し始めているしっかり学習型のに対し、木内さんは入った時期も時期(お盆)だったからとはいえ、既に檀家さんの家を回ってお経を上げ、法話をするという超実践型。

実際周りに同じような環境の人が居たことがないから比較することも、情報交換することも無かったので自分の環境が良いのか悪いのかなんて、気づくはずも無かったんですよね。
良いか悪いかなんて、正直仏教の世界には無いんですけど。

僕は、結構考えるよりも体が先に動くタイプで、頭で理解しきれない部分はやってみながら覚えようとしたりする傾向があるんですよね。
取扱説明書なんて読んだことないので、大体最初に壊しちゃったり取り返しつかなくなってしまったり、時間がかかったりして失敗するし、そもそも読んでも理解できないと思っている。
(そもそも理解する気が少ないです)

木内さんのことを僕は全て知っているわけではないですが、頭脳派で感覚派な方。
元臨床心理士さんでもあり、「心」という目に見えないものを捉える『心の研究者』でもあります。
物事の奥深くまでをよくよく考えられて、それでいてただの知的派でもなく、体に起こる感覚的なところをよく観察されているんですよね。
僕とは正反対の人だなと思っています。笑

仏縁というのは面白いもので、僕には僕の不足を補うように、木内さんには木内さんの不足を補うように、「もっとココを勉強しなさい」と言われんばかりに必要な環境に導いてくださっているような気がしてならないのです。
自分に必要な過程で修行するように同じ宗派と言えど、自分に合ったお寺とのご縁ができたんでしょうね、なんて話をしておりました。

得度してから、同じ僕という人生なんですけど、心の在り方、自分の在り方、考え方が変わりました。
お寺で修行している日だけが修行の日ではなく、仏縁を結んだあの日から毎日が修行なのであると。
毎日全てが自分の人生に必要な過程であると感じながら、今日も今日とて過ごしていきたいと思います。

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