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思い出はそのままで

 家を出た瞬間から金木犀の香りがする季節、10月。

 小田急線の小田原~本厚木間は、扉が開くたびに金木犀の香りが舞い込んでくる。一帯が金木犀の香りでむせ返っている。ふっと香ってくるならムードがあっていいのだけれど。金木犀の香りを本当の意味で楽しめるのは東京なんじゃないかと思う。

 そしてわたしが物心ついたころから、母は金木犀の香りがするたびに「トイレの芳香剤と同じ香り」と零していた。「そんな芳香剤、家で使ったことないじゃない」と言うも、「こういう香りがするトイレあるでしょう」と意見を曲げなかった。それが刷り込まれていて、金木犀の香りがすると「あ、トイレの芳香剤や」と思ってしまう。

 金木犀の香りみたいな芳香剤、出会ったこともないのに。まったくもって迷惑な教育やで。言葉の刷り込みとは恐ろしい。ある種の洗脳である。

 昨日は夕方から取材。現場はわたしの母校の専門学校からほどない場所で、仕事でここまで母校の近くに来ることは初めてだった。懐かしい道を歩きながらいろんなことを思い出したり、こっちのほうには来たことがなかったなと新鮮な気持ちになったり、卒業して10年経つけれど西新宿はそこまで大きく変わっていないなと思ったり、ラジバンだり。

 そのノスタルジーが爆発したのは、取材を終えてからだった。この時期は学園祭の準備をしていて、このくらいの時間はよく同期のみんなとわいわいやいやい言いながら、新宿駅まで歩いて帰ったり、歌舞伎町まで歩いて飲みに行ったりしていた。

 新宿中央公園は当時のまま地形を変えておらず、点々とした街頭のみの真っ暗な空間でありながらも道に迷うことなくすんなりと通り抜けることができた。「10年以上経っても身体が地理を憶えているものだな」と思った瞬間に、友達と他愛のない話をしながらけらけらと笑いあっていたときの感覚と記憶が身体のなかに蘇ってきた。

 だけどその瞬間に痛感した。もう学生時代は完全に思い出と化したのだなと。いまここにいるのは30過ぎのしがないフリーランスライターひとり。肩こりに悩まされていて、あのときよりだいぶ太って、頭のなかは「次の取材うまくいくかな」や「〆切間に合うかな」や「明日までにこれとこれ終わらせなきゃ」「うまいこと原稿が書けるだろうか」ということでいっぱいだ。

 学生時代に仲間たちとさんざん歩いていた道を、仕事帰りにひとりで歩いて、もうあの日々は戻らないことを本当の意味で実感したのだと思う。これからこの記憶は少しずつ風化して、脚色がついてふくらんで、綺麗でやわらかくて実体のない球体になるのだろう。

 30代に入ってから、当たり前に存在していたものが、どんどん終わっていく。小さい頃から知っている俳優さんや女優さんが次々と亡くなり、身近な人が亡くなり、昔当然のように使っていた器具も消えていく。あれだけ仲が良かった人とも連絡を取らなくなり、周りの人々の環境も、10代の頃には当たり前だった常識も変化していく。武蔵小杉駅前に昔の面影はほとんどない。渋谷も訪れるたびに地理が変わっている。

 「昔は良かった」なんて言いたくないし言うつもりもないけれど、西新宿のあたりはそこまで様変わりしてほしくないなと思ったりもする。だけど数年前は下北沢駅と街一帯が変わることにあんなに落胆していたのに、いまとなっては新しくなる下北沢にわくわくしている自分がいる。勝手なもんだ。

 年齢に優劣なんてないと思うけど、その年齢にならないと感じられないことはあると思う。それを出来る限り捕まえられる大人でいたいな。

最後までお読みいただきありがとうございます。