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避けていたものに手を出すと

 庭の草取りをした。草取りはタイミングが難しい。まとまった時間が必要だし、天気が良くないとできないし、蚊が多い時間は避けたいし、雨が少ない時期がいい。日焼けしたくなくて、虫が苦手な人間にしてみるとなかなかハードルの高い作業だ。

 新緑の季節であるGW明け、梅雨明け直後、ヤブ蚊が出る直前の計3回を最低でも行うようにしている。ひとりよりもふたりのほうが効率がいいので、母のお店の定休日と、わたしの仕事の融通を合う日かつ、お互いの身体のコンディションがいいを狙う。ほんと骨が折れる。

 「除草剤を撒けばいいじゃないか」と言われるだろうが、庭には母が大切に育てている植物も多いこと、我々が暮らしていけるのもこの自然物のおかげであること、健康への害を考えると、手を出すことは憚られる。だからといって庭がヤブなのは御免こうむりたい。なら自分たちでやるしかない。

 3、4年前までは「日焼けもいやだし面倒くさいから出来ることならやりたくない」「母ひとりでやってくれたならラッキーだな」とすら思っていた。手伝うときも嫌々行っていた。だがここ2、3年は、動き出すまでは億劫だとはいえ、草取り自体はそんなに嫌いではなくなった。

 その理由は大きくわけて3つあって、まずはやはり、綺麗になったときに得られる爽快感だと思う。自分の手で自分の身の回りのものを綺麗にできただけで、ものすごく満足感を得られるタイプなのだということに気付いた。

 それから部屋や家の掃除も面倒くさがらず、気付いた時にこまめにやるようになって、それが自然になっていった。もっとフットワーク軽く掃除機をかけたいと思い、スティックタイプのものを3200円くらいで購入したら、より掃除が身近になった。

 面倒だなーと先延ばしにしてたまに頑固汚れを頑張って取るよりも、歯を磨くのと同じような感覚で毎日掃除をしているほうが結果的に面倒くさくない。夏休みの宿題をやらずに登校していたほどの面倒くさがり屋が、こんなことを思うようになるなんて……。自分で感動しちゃう。

 ふたつめの理由は、自然物に触れることが精神衛生上いいということ。虫はものすごく苦手だし、土を掘り返してミミズが出てくるたびに「いやあああああああああ」と言ったりもしてるけど、緑は目に優しい。ふだんパソコンに向き合うことが多い人間には、目を休ませる重要な時間になっている。

 雑草の生命力を目の当たりにできるのも草取りだからこそで、毎年お馴染みの雑草もあれば、去年まではなかった雑草が生えていることもある。「なんでこいつは今年生えてるのかな~」とか「根が深いな~」とか「せっかく生えてきたのにごめんな~」とか思いながら一つひとつ草を取っていくことは、自分の気持ちや脳を耕しているような感覚がある。

 みっつめの理由は、草取りをしながら母と他愛のない話をする時間が取れること。母とわたしはよく会話をするほうではあるが、ああやってのんびり話す時間はなかなか取れないので、いいものだなと思う。

 草取りは雑草の命を絶つという行為だからか、自然と生きてきたこと=過去のことを話すことも多くなる。わたしが忘れていた出来事を母が思い出したり、その逆もあって、いろいろと感傷的になったりしつつ、いい振り返りの時間にもなっている。

 普段の生活だとつねに目の前のことや先のことを考えて生きていかなければならないけれど、草取りをしている時間だけは、時の流れという概念がなくなるのだろうなと思う。いままで生きてきたときのすべての時間や、母の生きてきた時間にもお邪魔できるような感覚が心地いい。

 草取りをしたあとは気持ちがすっきりしている。あんなに面倒でいやだった草取りが、なんやかんや精神や思考の休憩所みたいになってきてるのかな、なんて思った。年齢の影響もあるかもしれない。

 わたしは直射日光を浴びている時間が長かったのと、放熱が下手な体質ということもあって、9時から草取りをして2時間半でダウンしてしまった。母はそのあと20分くらいひとりで草取りをしていた。わたしのほうが明らかに体力があるのに不甲斐ない。そしてやはり母は偉大である。

 「面倒くさい」で避けていたもののなかに、自分を救うヒントがあるのかもしれないな、と思う今日この頃。次は裁縫かなあ……。でも超絶不器用なんだよな……。

最後までお読みいただきありがとうございます。