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(劇評)日常はおどっている

ひととせプロジェクト『ダブル・ビル』の劇評です。
2019年8月7日(水)19:00 金沢21世紀美術館 シアター21

 「ひととせ」とは、一年・春夏秋冬という日常。人と世。そう当日パンフレットに書いてあった。演者達が過ごしている、いつもどおりの日常。その様子をそっと差し出してひととき見せてくれたのが、ひととせプロジェクトの『ダブル・ビル』であるように感じた。

 会場に入ると、『二人がおどる、二人のダンス』に出演する、白いTシャツにグレイのパンツ姿の魚琳太郎と、赤いノースリーブのワンピースを着たなかむらくるみが、長封筒を配っていた。中には「MENU」と書かれた黄緑の紙が入っている。今日のメニューは6つ。「ペース」を味わう、「特徴」を味わう、そして「お気に入り」、「距離」、「それぞれ」、「二人」。このメニューが、これから始まる二人のおどりを軽く説明してくれている。板張りの黒い床には、何も置かれていない。

 二人は下手と上手から、反対側へと早足で移動する。ワン、ツー、魚がその数を数える。数はフィフティーンまでカウントされた。その後、二人は靴と靴下を持って中央へ来ると、魚は白い靴下に黄緑のスニーカーを、なかむらは赤い靴下に黒い靴を履く。そして今度は、二人で回って円を描く。今度はセブンまで数えられた。これは「ペース」を味わうメニュー。魚のカウントに合わせていても、二人、それぞれの持つスピードが見える。

 「お気に入り」を味わうメニューで、魚はタブレット端末を持って登場する。タブレットを床に置き、歌を再生し、観客に手拍子を要求する。彼はそれに合わせて躍る。普段から好きで躍っている曲なのだろう。魚の日常のダンスだ。そのいつものお気に入りのダンスがあってこそ、今、観客に見せてくれている、少しだけよそゆきのダンスができあがるのだと感じた。

 6つのメニューを披露していく二人のダンスは、二人の間の信頼関係が感じられるようなものだった。難しい動作はしていない。けれど自分の感情や感覚を伝えるために、最適だと思われる動きが繰り出されている。二人がつくる穏やかな空気の中で移り変わるダンスは、楽しい漫画のページを次々めくっているかのようだった。


 二人が退場すると、客席に箱が回される。中にある茶封筒には、ポストカードのような紙が入っている。スーツ姿の男性の絵の上に「ぼくはもどかしい」と書かれている。裏には、鳥の形に切り抜かれた青空の絵と「あの空の あの青に 手をひたしたい」の文字がある。舞台の下手側では、黒いシャツに黒いパンツ、グレーのパンプスを履いた橋本唯香が、衝立に、机に置かれていたポストカードや文字の書かれた紙を貼っていく。『(in)visible wor(l)d』が始まっていた。

 それらを貼り終えると彼女は、そばに立ててあったマイクに向かって話し出す。春の話。彼女のいる土地では、新学期は4月ではなくて9月に始まるけれど、それでも春には始まりのイメージがある。机の下から黒いスニーカーを取り出して、履き変える。新しいスニーカーも買った。何かが始まっていく、希望の春。なのに、春はどこかもどかしい。それはなぜだろう。

 彼女の話した言葉や、他の人が話す言葉が重なり合って場内に流れる。日本語も外国語もある。その言葉達の中で橋本は躍る。春に感じるもどかしさを体中からしぼりだすように。自分の感じていることを、そのまま自分から取り出して見せようとしているように。うまく言葉にならないのなら、言葉になるその前の状態を見せればいい。体全体で語ればいい。もどかしさの中に含まれた春のイメージが膨らんでいく。様々な言葉が行き交うように、春は少しせわしくて、それでもどこかしっとりとした空気があって。
 しなやかで流れるような橋本の動きが止まり、上演が終わった時には、もっと観ていたい気持ちが生まれた。その少し物足りない気持ちは、もどかしさのおすそわけなのだろうか。

 コンテンポラリーと名前の付く芸術には、どこか難しい印象がある。しかし「現代」というのだから、それは私達が生きている今、そのものを表現する芸術なのだ。表現される「今」は、何も大きな問題だけではない。私達の日常の「今」、そのなにげなくも個性的な動作達も、大切な表現の源泉の一つだ。手をいつもより大きく動かして、今の感情を表そうとしてみる。手に合わせて足が動くかもしれない。頭が動くかもしれない。その様子を誰かが見れば、踊っているようだと思うかもしれない。そこから、ダンスが始まる。踊る側にも、観る側にも、何も、難しいことはない。

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