(劇評) 境界に在るもの

エイチエムピー・シアターカンパニー 鏡花の夕べ『高野聖』の劇評です。
2017年10月7日(土)19:00 中村記念美術館

 金沢市立中村記念美術館の、茶室に面した庭園にて、エイチエムピー・シアターカンパニーによる鏡花の夕べ『高野聖』は上演された。構成・演出は笠井友仁、語りは高安美帆、出演は森田祐利栄、澤田誠、原由恵である。

 庭園に出た所、建物の軒先に客席、客席に近い上手に語りの高安が座る。庭園を挟んで向こう側には、茶室の耕雲庵が見える。その後ろは、森である。森の木々と、すっかり更けた夜の空の色に圧倒される。耳に聞こえるのは虫の音と、水の音。客席の明かりが落ちると、高安が親しみのある口調で語りかける。最初は、天候の話。石川には雨が多いということ。では、雨が少ないのは? それがこの『高野聖』の舞台である長野、飛騨である。というところから、流れるように朗読が始まる。

 主人公は修行中の坊主である。松本を目指し、飛騨の峠を越えようとしている。山道は途中で二手に分かれている。一方は進むのが困難な道であるが、先にその道を行った薬売りのことが、坊主の気にかかる。坊主は困難な道を選んで歩を進めていく。庭園は暗く、背景の森が手伝って、木々の間を森の方向へ進む人々は、本当に森へと向かっているようである。
 山中でヒルの被害に遭った坊主は、家を見つけ、助けを請う(この家には、茶室の耕雲庵が使われている)。そこには婦人(おんな)が一人。そして、婦人に使える、親父と呼ばれる男性。婦人は坊主が泊まることを承諾し、体を洗うために川へと連れる。ここで、婦人と坊主、二人が客席に近い位置に降りてくる。山の中の風景を描いていた時は、暗がりでよく見えず、姿もあやふやだった人物が、手にしたライトの光で、表情に強い陰影をもって、露わになる。遠近のコントラストが印象に残る。

 一夜明けて、坊主は山道を進むが、婦人のことが忘れられず、引き返そうとする。そこに親父が現れ、婦人について話し出す。

 森の奥、誰もいない場所にひっそりと住む婦人達。そのおぼろげな存在と、この世界からの遠さを、庭園と茶室、そして闇夜を使った演出が表現していた。よく見えない。でも、だから、見たい。いや、見てはいけないものかもしれない。夜闇に紛れて、ほんの一部分だけ私たちに姿を見せる彼らは、この世界とどこか別の世界の、境界に位置するもの達を、ぼんやりと映し出していた。

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