(劇評)ちいさな、から、はじまる

100いまるまる『いまるまるのおどりの公演6 ちいさなうそをつく』の劇評です。
8月28日(日)2000開演 金沢アートグミ

 演じられるスペースは、アートグミの板張りの床そのままである。奥の中央に正方形の大きな白い壁がある。この壁に、映像が映し出されて、パフォーマンスが始まる。
 回る地球儀、めくられる本、スイッチを押される扇風機。部分だけの映像は、日常の風景を引用しているかのようだ。
 しばらくしてダンサーが登場する。黒いタンクトップに、赤いショートパンツという出で立ちが鮮やかだ。映し出されている日常らしき映像の手触りからは、彼女達の服装ははっきりしているような気がした。だが、動きはっきりくっきりとしたものではなく、場になじませるように、じっくりと、といった雰囲気がある。やがて彼女らは服装を変え、スカートやパンツを身に付ける。動きの大きさが増している気がする。最初の彼女達は、服を着る前の、目覚めたばかり、一日の始まりを意味していたのだろうか。かといって、衣装を変えた後のダンスが、急に活動的になったわけではない。気を衒った動きや、驚かせるような勢いはない、あえて笑わせようとする不自然さもない。

 公演の中ほど、スクリーンには「休憩中」の文字が映し出される。といっても、ダンサー二人は休まずに椅子と机をそれぞれ運び入れてくる。机から服を取り出し、着る。髪を結ぶ。
 この休憩の後は、前半よりも映像の変化が大きく、ダンスには遊びが増したように思えた。この作品がとある一日だとするならば、お昼の休憩を過ぎて、一仕事終えて、自宅に帰ってリラックスするような、そんな流れがあるように思えた。映像には移動中の空や周囲の風景が映しだされている。彼女達は家に帰るところだろうか。そうして、夜が更けて、一日が終わる。
 大きな変化のない、日常の風景と、日常の自分。でもそれらが、毎日全く同じはずはない。何かちいさな異変が起こった時に、それを修正しようとして「ちいさなうそをつく」こともあるのかもしれない。うそから生まれたちいさなずれが、ちいさな動きになって、ちいさなダンスになる。

 鑑賞後、家に帰って。手を洗う、手を振って、タオルでふく、コップを取り出して、お茶を注ぐ。なんということのない日常の動作も、ひとつひとつ意識して見つめたなら。それはダンスの入口かもしれない。

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