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(劇評)もし純愛があるのならば

Noism1×SPAC 劇的舞踊 vol.4『ROMEO&JULIETS』の劇評です。
2018年7月14日(土)17:00 オーバード・ホール

 Noism1×SPAC 劇的舞踊 vol.4『ROMEO&JULIETS』は、演劇でもあり舞踊でもある。俳優と舞踊家が入り交じり、その世界を織りなしていく。状況の説明は最小限に留められ、役者達の対話は少なく、舞踊が多くを占める。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の物語を逸脱はしていないが、その基本形の上に掛けられた新しい織物は、今を描いている。

 暗がりの中を物語は進む。上手と下手の手前にそれぞれ4つ置かれた、黒く細い燭台に火が灯される。舞台の左右と背後で、細い紐が多数垂らされたバーが上がる。長く紐は揺れて、きらきらと光る。舞台上には人の身長の2倍弱はあろうかという、白い枠の長方形が八つ。動かせるようになっている。その側面は鏡のようになっていて、周囲を映し出す。他には白い枠の小さな正方形がいくつかと、車が付いて動くベッド。舞台上にある物は、どれも直線的な形をしている。
 登場して、舞台手前に一列に並んだ役者達は、皆、白いノースリーブのワンピースのような服を着ている。体の一部分に何か色が付いていて、そこが光る者もいる。
 車の付いたベッドは、病院のベッドを思わせる。袖のある服を着た3人の女性達は、看護師のように見える。この舞台は病院のようだ。当日パンフレットのキャスト表には、看護師、医師の他、個別認識番号らしき長い数字を付けた、患者達の名が並んでいる。

 患者達は番号によって管理されている。舞台上の小さな病院に凝縮された監視社会に、自由などもうないのだろう。そして病院という人の生死に関わる場所で、強く意識されるのが個々の死生観だ。愛に生き、愛に死ぬ。ロミオとジュリエットのように強烈な生死を遂げる覚悟を持った死生観は、今この社会に存在できるだろうか。人と人がつながり過ぎて、互いの自意識が過剰化し、いつしか他者への尊重がないがしろにされる社会において、ただ一人への思いを最後まで貫き通す純愛はあるのだろうか。

 この物語にはいくつかの疑問点がある。なぜジュリエットが5人なのか。なぜロミオが車椅子に乗っているのか。なぜ場所が病院であるのか。これらの疑問から考えるに、この世界を覆っている悲劇は、何らかの障害を持つ人々の困難なのではないか。ジュリエットは5人に分裂している。それは過去分裂病と呼ばれた統合失調症、精神の障害を表しているのだろう。そして車椅子のロミオは身体の障害を。障害は足かせとなり、他者を自由に愛することもできない。
 しかし、決して特別な人々だけを描いた物語ではないと感じた。誰にでも大なり小なり不都合はある。それが社会においてうまくいかなさを生んだとき、不都合は障害になるのだ。

 車椅子に乗ったロミオとジュリエットのダンスは、美しく感じると同時にはらはらもする。車椅子が走り過ぎてはしまわないだろうかと。見ていると不安になってしまう関係がここで表現されている。しかしそんな不安など要らない。彼らは自分を制御する術を、ちゃんと持っているのだ。その特性を知り、その動きに合わせる。それはダンスの話だけではなく、不安な関係性の表現においても言える。本人達は自分の特性を理解していて、それを乗りこなして生きている。例え、周りからは不安定に見えても。
 誰もが持っている不都合も、誰かの理解があれば特徴に変わる。その特徴こそが、愛すべき一部になり得る。ここで生まれた愛もまた、不安定なものかもしれないし、永遠ではないとしても。一瞬、一瞬の動きを愛していくことを続けられるとすれば。最後まで貫き通る純愛はあるのかもしれない。

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