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(劇評)私は父と踊れるか?

伊藤郁女『私は言葉を信じないので踊る』の劇評です。
2018年8月4日(土)19:00 金沢21世紀美術館 シアター21

 私は父と踊れるか?
 私は父と、踊るようなコミュニケーションを取ることができるだろうか?
『私は言葉を信じないので踊る』が、伊藤郁女と伊藤博史の、実の親子によるダンスだということを知ってから、私は自分と父親の関係を考えていた。

 会場に入ると、上手に置かれた背もたれのある椅子に、伊藤博史が座っていた。その奥の方にはもう一脚の椅子と、マイクがある。下手側には、黒い布で包まれ、車輪の付いた大きなオブジェがある。
 舞台中央付近で、伊藤郁女が動いている。民族衣装のような、カラフルで細かい装飾のたくさん付いた黒い上着とスカートを着ている。彼女はそっとつま先を立てて、しっかりかかとまで地につける。ゆっくりと、横を向いて歩く。彼女のものだろう質問の声が会場に流れている。どうして、から始まる、父親へ当てたいくつもの疑問。父は座ったまま動かない。

 客席をまっすぐ見据え、伊藤郁女が少しの説明をする。彼女は両手で仮面を持っていた。その仮面を付けて、彼女は地に倒れる。そして柔軟に、ゆるゆると波打つように、体を動かす。時折うめき声をあげる。時間をかけて起き上がる。彼女は、自分が生まれるところから物語を始めたのだ。父は座ったままである。
 彼女はうごめいて、成長する。民族衣装調の上着とスカートを脱いで、仮面を外し、黒いドレス姿になる。奥の椅子へ向かうと彼女はマイクを使い、父親への質問を始める。
 伊藤博史が動き出す。彼は下手のオブジェまで近づいていき、気をつけながらそれを押す。娘のいる椅子のところまで運ぶと、彼はオブジェに隠れる。娘は中央に躍り出る。

 父と娘が共に踊る場面がある。まるでアドリブのように見え、笑いを誘う部分もあるが、そうではない。いつも初めてのように踊っているのだとアフタートークで伊藤は話していた。また、娘の舞台に立つことを、最初はどう断ろうかと思ったと彼は話した。それでも、受けないで何も起こらないか、受けて何か起こるかで、彼は後者を選んだ。
 ダンスのプロではない父の踊りだが、何か惹きつけるものがある。それは重ねた年齢が醸し出す雰囲気かもしれないし、舞台に立つことに対しての彼の覚悟が滲み出たものかもしれない。

 娘から父への言葉での問いかけに、父は何時間もかけて答えた。その一部は音声として、また文字として会場に流された。伊藤郁女から投げかけられたたくさんの質問と、伊藤博史からの回答。上演には言葉が溢れていた。それでもこの公演のタイトルは『私は言葉を信じないので踊る』なのだ。
 どれだけ言葉を積み重ねても、伝わらないことがある。言葉は何かを伝えるために存在するのだけれど、完璧に伝わるわけではない。人によって言葉の使い方にはゆらぎがあるのだから。言葉の受け止め方も然りである。多数の言葉よりも、少しの体の動きのほうが、物語る場合がある。体を動かすことのほうが、喋ることよりも自然な者がいる。だからダンスという手段を、娘は父への思いを表すために使ったのだ。
 伊藤博史は、空間を把握し物を生み出す彫刻家である。言語以前のもの、または言語を超えるものを、彼も扱い受け取ることができる。よって、二人のダンスは言葉を二の次に置いて成立する。
 親の子への思いは、言葉にしようとしてもうまく形にならないものなのかもしれない。子の親への思いも同様である。親子というものと、言語というものの不思議を、二人のダンスに観た。

 さて、私は父とダンスが踊れるだろうか。言葉でのやりとりすら少ない父と。しかし言葉数が少なくとも何かは伝わっているかもしれない父と。互いを認められるようになるまで、まだまだ時間が必要かもしれない。それでもいつかは、もう少し意思を通わせることができたらよいと、うらやましさを持って伊藤親子に思わされたのだった。

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