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(劇評)「ぼく」を問う

書彩 vol.9『ぼくになることを』の劇評です。
2019年7月14日(日)17:00 スタジオ犀

 ぼくの頭の中には「宝石」がいて、ぼくになることを学んでいる。ぼくがぼくでいられなくなった時に、かわりにぼくになれるように。グレッグ・イーガンの『ぼくになることを』は、このような説明で始まる。書彩 vol.9はこの作品のリーディング公演である。
 正面、上手、下手の三方を黒い幕に覆われた劇場。床には白い布が菱形に敷かれている。その上には四角い木の椅子。正面に張られた黒い幕の奥から、白いシャツとパンツ姿の女性(木村日菜乃)がテキストを持って登場。次いで、同じような格好の男性(木林純太郎)がやってくる。話者が椅子に座り、その背後に読んでいない者がじっと立つ。二人は入れ替わり、一人の「ぼく」と、ぼくを取り巻く人々を演じる。
 宝石が取って変われるのならば、ぼくは一体何なのだろう。彼は葛藤しながら歳を重ねていく。ある時、彼の両親が3年前に、宝石への「スイッチ」を済ませていたと告白する。自分の両親の脳が宝石であることに気付かずに彼は過ごしていたのだ。宝石になっても、これまでの自分とは変わらないのか。いや、自分は死んでしまうのではないか。
 この物語にはいくつもの問いがある。自分とは何なのか。脳が自分だと言えるのか。機械が自分となりえるのか。そして、人間のままで死を迎えるか、機械となって永遠を生きるか。二人によって演じられる「ぼく」の声と姿が揺れ動くように、観ているこちらの思うところも、揺さぶりをかけられているようだった。
 そもそも彼には最初から宝石が埋められている。それを使うか使わないか選ぶのは本人だが、持つかどうかは選べずに生まれてくるのならば、その世界においては、宝石を使うかどうかの葛藤も折り込み済みなのかもしれない。自分の力の及ばない、大きな力の存在を表現しているようにも思えた。
 海外文学を翻訳した文体の馴染みにくさと、SFならではの用語の難しさを時折感じたが、複雑な物語でもあきらめず追い掛けていけるほどに、二人の朗読に引き込まれた。

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