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(劇評)春を呼ぶ叫び声

鈴木ユキオプロジェクト『春の祭典』の劇評です。
2019年10月26日(土)19:00 金沢21世紀美術館 シアター21

 クラフト紙でできたファイルボックスが100個ほど、客席から見て山の形になるように、きっちりと積み重ねられていた。ファイルボックスは映像を映し出す壁になる。『春の祭典』が流れだし、壁に最初に映ったのは、ダンスを踊る一組の男女のアニメーション。やがて実写の映像が混じる。不穏な雰囲気をはらんだ音楽が進むにつれて、映像にも緊張が感じられるものが増えていく。映像が流れる横では、鈴木ユキオが、ファイルボックスを少しずつ手に取り、下手側の空いているスペースに並べ始めていた。彼はショッキングピンクのロングシャツに、フリルの付いた黒いミニスカートという格好をしている。下手に4列、上手側にも4列。ただ、上手から二列目のボックスだけは、縦になっている。ファイルボックスの山の後ろから紙束を取り出した鈴木は、それをボックスに入れていく。アラブの春、という文字が見えた。土方巽、と書かれている紙もある。紙にはそれぞれ違う、出来事や人名が書かれているようだ。

 中央にも4列、ボックスを全て並べ終えると彼は、一つのボックスから取り出したマイクで話し出す。『春の祭典』を題材にして作品を作ってほしいと頼まれたこと。チェコでの出来事など、作品にまつわることから世界情勢に絡んだことまで、語りは続く。ちょっとしたことで物事は倒れる、と、鈴木は上手ニ列目のボックスを押す。ボックス達はドミノのように倒れた。話の最後に「壁を壊します」と言うと鈴木は、前方にマイクを置く。そして、綺麗に並べたボックス達を押し出し、投げ、蹴り飛ばすのだ。

 ファイルボックスの一つ一つが、壁を作るためのブロックであるとするならば。整然とブロックが並べられた様子は、周到に準備された大きな計画が完成した図のように見える。何かの意図で、計画的に完成した緻密な構造体。それが、突然の暴力によって破壊される。完成していた構造体は善であったのか、悪であったのか。それが何であろうとも、永遠にそのままであり続けることはない。完全なるものはありえない。何もかもが、どこかに倒れやすい部分を持っている。そこが何らかの力を受けて、揺れ、崩れ、壊れる。

 先にボックスに入れられていた紙に書かれていたのは、時代を作った先人達と、起こされた出来事だった。先人達の偉業に尊敬の念を払いながらも、それを壊さないといけない状況がある。いつのまにか目の前に新しい壁ができていると気付いた時だ。壊しても、壊しても、新しい計画は作られ、実行され、新しい壁ができていく。

 ボックスを蹴散らして空いたスペースで、鈴木はじわりと踊り出す。何かを壊した喜びというふうな、楽天的なものではない。壁を壊して、冬の時代は終わり、春は来たか。まだだ、まだ春は来ていない。本当の春を呼ぶためには何が必要なのか。それを知ろうとするように、それができる自分であろうとするために、鈴木は地に自身を近づけて、重みを持って踊る。
 下手から安次嶺菜緒が登場する。彼女は毛皮のショートコートを羽織り、黒いレギンスを履いている。二人の衣装は、わかりやすい男女の区別をこの場から取り去るもののように見えた。男であれ、女であれ、壁を壊そうとする者の性別は問われない。二人の体は調和という言葉から離れているが、かといって好き勝手に動いているわけではない。互いの距離を測りながら、それぞれの意志を強く保って行動する。
 
 暗転ののち、安次嶺のコートを鈴木が取る。上半身裸の二人は、体に赤い塗料を薄くまとっている。その赤はまるで、今、流れだした鮮血ではなく、かつて流れた血の跡のように、二人の体に染みついている。過去を体に保持しながら、今その時その場に立っている自分を表現する。そして、未来を見つめる。手探りで過去という残骸をかき分けて、今、自分達が置かれている状況を把握する。足を踏み締めて、立っている地を実感する。手を伸ばして、流れている空気を判断する。そして、その状況を変えていく。春を呼ぶために。無言で咆哮しているような二人の姿から、今この時にも戦っているたくさんの人々の姿が想像された。叫び声が聞こえたようだった。

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