藤間

日常のこと、もしくは思い出 https://twitter.com/FJM0324

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最近の記事

彼女のところに行く日まで

友だちが亡くなった。 厳密にいえば、一年前に亡くなっていた。 ちょうど一年前から、彼女とぱったりと連絡が取れなくなった。繊細な子だったので、「もしかしたら今は距離を置きたいと思われているのかも」と思い、しつこく連絡することはせず、数ヶ月そのままにしていた。けれど、毎年お祝いの連絡をくれていたわたしの誕生日にも音沙汰なく、こちらが送った誕生日祝いの連絡も既読にならず、何か変だと思うようになった。彼女は姉と共通の友だちだったので、姉とあらゆる手を尽くして、友だちの家族の連絡先

    • 寝かしつけ中にするタイムスリップの妄想

      娘と歳の近い子をもつ友達が、その子の寝かしつけについて「一緒に寝室に行って、ベッドの上に寝かせて、おやすみ〜ってドアをしめたらすぐ寝るよ」と話していて、ものすごくびっくりした。うちの娘は基本的に寝つきが悪く、毎晩1時間ほど添い寝しないと眠ってくれないからだ。 もう少し月齢が低い頃には、ただそばについてさえいれば、スマホを眺めていようと読書していようと勝手に眠ってくれていたのだが、近頃はささやかな灯りさえも嫌がるので、スマホのスイッチは切り、窓のシャッターも閉め切って、寝室の

      • 娘がかわいすぎて、未来が恐ろしい

        母は強しとよく言うが、娘が生まれてからの私は、それまでよりも確実に弱くなった。 娘が生まれるまで、自分の命よりも大切なものなんて何ひとつなかった。心から愛した夫でさえも、自分の命よりも大切かと問われたら、たぶんそんなことはなかった。もしも悪人があらわれて、夫の首筋にナイフを当てながら「お前の命と引き換えに夫を助けてやる」と言ってきたとして、私はたぶん「えっ、それは……え〜〜………」とためらってしまうはずだ。けれど人質に取られたのが娘だったとしたら、私はすぐに自分の命を差し出

        • デートを回避するために進撃の巨人を犠牲にした彼

          長年読み続け、「最終回を読むまでは死ねない」と思うほど熱中した漫画が実際に完結してしまうのは、うれしいけれど途方もなく寂しいことだ。「最終回を読むまでは死ねない」と思うということはつまり「最終回を読むまでは生きていたい」ということで、大げさにいえばその作品を追い続けることが生きる糧になっていたのだから。 先月完結した『進撃の巨人』も、わたしの生きる糧となっていた作品のひとつだ。もっとも、この作品に限ってはクライマックスへ向かうにつれ目を覆いたくなるような絶望的な展開が続いて

        彼女のところに行く日まで

          寝室とつわりと夫

          正月ムードがなくなりはじめた年明けのある夕暮れ、仄暗い寝室に横たわって、私はスマホでチェンソーマンを読んでいた。なぜ日が暮れる前から横になっていたのかというと、当時の私は妊娠三ヶ月を迎えたところで、つわりの症状から座っていることもままならなかったからだ。 つわりは妊娠二ヶ月の、十二月半ばごろからゆっくりとはじまった。はじめのうちは、食後にやんわりとした胸焼けのような症状が起こるだけだった。それがやがて一日中になり、空腹になるとはっきりとした吐き気をもよおすようになった。いわ

          寝室とつわりと夫

          父と大分へ向かう機内にて

          前回このnoteで日記らしきものを書いてから三ヶ月以上経っている。いったいいつ梅雨が明けるんだろうと部屋干しの洗濯物の生乾き臭の中で思っていたのに、いつのまにかヒートテックとウルトラライトダウンをクローゼットから引っ張り出していた。文章を書く仕事をしているからか、日記と呼べるほどには気軽に文章をネット上に残すことができないようだ。 これを書いている今、わたしは大分空港行きの飛行機の中にいる。三列の座席の真ん中は空いていて、空席の隣で父がマスクをしたまま沈み込むように眠ってい

          父と大分へ向かう機内にて

          夫婦間の呼び名

          「パパ」「ママ」「お姉ちゃん」など、家族間でお互いを呼ぶ名前が変わることはあまりないのに、カップル間では変容していくのはどういうわけだろう。おそらく愛情から来るものだとはわかるけれど、どうして妙なあだ名で呼び合いたくなるのか理解できない。理解できないけれど、私と夫はお互いに妙なあだ名をつけて呼び合っている。 そういえば、ペットに対してもそうかもしれない。たとえば私は義実家で飼われている三匹の犬がいとおしくて仕方ないのだけれど、アルフレッドという名前の犬のことは「アル犬(ルイ

          夫婦間の呼び名

          無題

          ごく近しい人を自殺で亡くしたことがある。それは私にとって青天の霹靂というか、寝耳に水、窓から槍というか……とにかく予想だにしない出来事だった。 訃報を受け取ったときのことを思い出そうとすると、なぜか必ず天井から見下ろした自分の姿が浮かぶ。自分で自分を見下ろしているはずはないのに。私はアルバイト先の塾のバックヤードで、二つ折りの携帯に両手を添えて、報せをくれた相手に向かって「何言ってんの? 何言ってんの?」と叫ぶようにくり返している。けれど見下ろしている側の私には、叫んでいる

          子ども時代を振り返れば、己の浅ましさがわかる

          心には層があると思う。上層は他人に示す自分の心ともっとも近く、低層は自分自身にすら把握されていないことが多い。私はこの心の層の深いところと、長い期間向き合えていなかったような気がする。 私はうそつきで、他人からこう見られたいという理想の自分を演じたがる子どもだった。とくに母親からは“天真爛漫でかわいい娘”と思われたくて、母親と衝突しやすかった姉を出し抜いてはより深い愛情を母から受けようとしていたように思う。けれど、当時の私はそのことに自分でも気が付いていなかった。“天真爛漫

          子ども時代を振り返れば、己の浅ましさがわかる

          他人の家を覗き見たい

          「人間はみんな己のことにしか関心を持つことができないんじゃないだろうか」とときどき思うけれど、その一方で、他人の内側をどうにかして盗み見たい、という欲望を抑えることはとても難しいような気がする。 主語に人間を据えると語弊があるかもしれない。事実、私は知人友人から「過干渉だ」と指摘されることが何度となくあった。 私はコミュニケーション能力に長けた人間じゃない。どちらかといえば、いやどちらかというまでもなく苦手だ。人見知りの内弁慶で、仕事であっても初対面の人と会う日には緊張で

          他人の家を覗き見たい

          日記を書くしかない

          お菓子づくり、パズル、テレビゲーム、家庭菜園と、“おうち時間”に楽しめそうなことはひと通りやってみた。こんな状況でなくても基本的には在宅で仕事をし、倹約家の夫とともに休日も家の中でつましく過ごしていた私にとって、ステイングホームはさほど苦痛なことではない。それにしたって、この状況で仕事も減ってしまったのだ。暇だ。 私には文章を書くことへのあこがれのようなものが、子どもの時分からあった。より具体的に言うならば、文章を書き、発信し、見知らぬ誰かに読まれるということへのあこがれが

          日記を書くしかない