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【往復書簡】「言葉」は通じるはずなのに「ことば」が通じない人に、どう接しますか?

のんちゃんへ。

お誕生日おめでとうございます! 2020年はいろんな変化が多くの人に起こっているけれど、いつも頑張っているのんちゃんだから、楽しい変化がたくさん起こるに違いないよ!

お返事が大変遅くなってしまいました。ごめんなさい。のんちゃん前のお手紙では、「歯の食いしばりが強くなったから、寝る前にマウスピースをすることになった」と書いてありました。その後、いかがですか? のんちゃんも歯を食いしばる人なのかとびっくりしました。前職の先輩で今もお世話になっている方も、食いしばりすぎて歯が欠けたって言っていて、そんなことあるのかと驚いたのだけれど、ここにも! 頑張る人だからだろうなあ、と思っています。のんちゃんも先輩も仕事きっちりの人。マウスピースで楽になりますように。

今回ののんちゃんからの質問は、「寝る時に必ずする習慣」ですが、私は学生時代からずっと、夜寝る前に体操をしています。もともとは美容目的だったの。私のお尻は洋梨型で、何もしないとすぐに足とお尻が一体化しちゃうから。なんだけど、今は同じ体操が腰痛対策になっていて(笑) これをやらないと、2、3日でギックリ腰になってしまうのよ。のんちゃんたちと香港に行った時にも、部屋で一人でやってた。笑

ところで。「言葉」を仕事にしているのんちゃんに、聞いてみたいことが出てきました。(前提の話が長いんだ。ごめんなさい。でも前提のほうが本質的な悩みだし、のんちゃんならわかってくれると信じて、長文を書く!)

以前にニューカレドニアで、原住民カナック人の民族解放運動を指揮したジャン・マリー=チバウという偉人の息子にお話を聞いたことがあります。首都から400キロぐらい離れた場所にある、ジャン・マリー=チバウが村長をしていた北部の村に夫と二人で行ったのです。

カナック文化を尊重するために、その村に行くには、近くの村の観光案内所でやり方を聞く必要があります。そこで贈り物として布を買ってから、ジャングルの中の未舗装の道を長らく運転していくと、石と木でできた素朴な家がぽつりぽつりと建っている村につきます。

そこで一人目の男性、男性に会います。銃痕の残る大きな手を持った人。その方に布を捧げてカナックの習慣通りの口上を述べて、しばらくお話しします。彼も民族解放運動の戦士で、独立運動時に起きた銃撃戦の話など、いろんなことを話してくれます。しばらく話すと、「その贈り物は白い家の男性のところに持って行け」と言われます。

なので白い家を探して、その男性に布を捧げて口上を述べ、少し話しました。通常だとこの男性のところで訪問終了になるんだけれど、その日はチバウの家に行け、と布を返されました。チバウの息子はアーティストで、日頃は首都に住んでいるのだけれど、その日は偶然村に帰ってきていたのです。ラッキー。(なぜか夫と旅をすると、こういう幸運がたびたび起こるの。)

そこで、チバウの息子、ジャン・フィリップ=チバウの家に行きました。ジャン・フィリップは大きくて丸くて、目に強い力がある人。布を捧げてカナックの習慣通りの口上を述べると、家の前の松の木の下に座って話そう、と誘ってくれ、カナックの歴史、カナック人解放運動の動機、今ふたたび起こっている独立運動のことなどを教えてくれました。ニューカレドニアの神話に興味があると言ったら、いろんなことを詰め込んだオリジナルの神話も語ってくれたの。

カナック人は文字を持たず、今でも口承文芸が残っているといいます。私は学生時代に口承文芸のひとつつである昔話を専攻していたんだけれど、口承文芸は文字に書き起こした時点で固定化され、ある意味で死んでしまうと学びました。それを、チバウの息子の話を聞いて、心底本当だと思ったんです。ことばは、物語や神話は、文字情報だけで伝えられるものだけではなくて、生きているなって。

当時は私はフランス語をまーったく話せなかったから、ジャン・フィリップの話は夫が私に通訳してくれました。ジャン・フィリップは英語を話せないけれど理解はできるから、と英語で。で、夫の英語の通訳を聞きながら、ジャン・フィリップは「なるほど、あなたは私の話をそう伝えるんですね」と、夫に何度も言ったんです。つまり、私が意味のまとまりとして聞いたのは、夫の「言葉」だということ。でも、ジャン・フィリップの言外の「ことば」は、私にもちゃんと伝わってきました。

語りを大切にしているジャン・フィリップの、語る時の表情、言葉を選ぶ時の間、吹く風、鳥の鳴き声、日差し、聞き手の質問や表情…その日の観光案内所からの道程、だけではなく、その日までの私たち3人のすべての時間、もしかしたらその後の未来に起こることも含めた、全部丸ごと含めた命の交流が、そこにはある。なんだか、宇宙の神秘だと思えるようなやりとりを全部含めたものが「ことば」なんだなあ、って思ったんですよね。

それを文字情報だけで切り取るなんて乱暴すぎるから、文字を持たないという選択をしたのだと断言したくなるほど、それは濃密な時間で。「ことばを交わすこと」ってそういう、すごく霊性の伴う行為なんだな、とつくづく思ったの。(気づいたら4時間以上話していたんだけど、15分くらいに感じていて、時間の神秘も感じた。)

なんだけど。国語の授業って字面にものすごく根拠を求めますよね。それは確かに必要なことではあるのだけれど、必要最低限であって必要十分とは言えないと思っていて。(わかりやすさのために、霊性をともなうような全体感のあるものを「ことば」、文字面に現されるものを「言葉」と書いています。)でも今は、「言葉」だけでコミュニケーションできると思われすぎていて、「ことば」が軽視されているように思うんです。

たとえば「おまえのことばなんか価値はない、俺は偉いんだ、俺の話を聞け」などという「ことば」を発しながら、何かの「言葉」をぶつけてくる人がいる。で、自分のその「ことば」に無自覚なんだ。そうなると「ことば」のやりとりなんて不可能で、こちらの「言葉」すら通じなくなっちゃう。聞くつもりがないからね。

私たちは「言葉」が商売道具だから、なるべく「ことば」を「言葉」に埋め込めるように頑張るわけだけれど(のんちゃんは映像や音声とセットになる「言葉」だから役割分担を考える難しさと、役割分担による「言葉」の負担軽減があるのだろうし、私は情報が届けばいいという仕事も多いけど)、「ことば」を「言葉」だけで伝えるのは難しいなあ、と思います。特に「ことば」の存在に気づいていない人には伝えにくい。これは、どうしたらいいんだろうねえ……。

という質問にしたいけど、問いが大きすぎるから、もっと具体的に小さくすると…
こんなことをのんちゃんに書こうと思い立ったのは、マンスプレイニングを仕掛けられたからなんです。

ラッキーなことに、私の周りにはあんまりマンスプレイニングをしてくる人はいないし、もしそういうことがあったとしても、大事な相手なら「ほめられたいんだねー」と思うので、ホイホイしておいています。(「ホイホイする」は祖母が作った言葉なんだけど、気に入ってる。)大事な相手をホイホイするのは、私はそんなに嫌じゃない。それはちょっとした戯れのようなものでもあるし。

なんだけど、先日、絵に描いたようなマンスプレイニングを受けまして。投げつけられた言葉を印刷して額装し、「ザ・マンスプレイニング」とタイトルつけて、どこかの現代アート展に出品したいぐらいで、ちょっと笑っちゃった。別にホイホイしたい相手じゃなかったし、「お戯れは他所でなさって」と思ったのでサクッと削除したんだけど、「ほらね。女は感情的になるからバカだよ」みたいに思われてるのだろうなーと思ったら癪に障る。本当は、もう少しおもしろい「ことば」を返して、聞き耳を持たせたいと思ったんだけれど。

のんちゃんは、こういう場合ってどうコミュニケーションをしてますか? のんちゃんは発信量も会う人の人数も多いから、こういう経験をしたことがないはずはなかろう。

ふう。また書きすぎました。のんちゃんこれからしばらく忙しくなるから、往復書簡はしばらくお休みだと知っているにもかかわらず。でも、これはいつかのんちゃんと語りたいことだったので書いちゃいました。のんちゃんがまた落ち着いたら、「言葉」をさかなにzoom飲み会でもしましょう。またね。

清香より

追伸:トップ画像は、「日本のドアは引いて入る、ヨーロッパのドアは押して入る」がよくわかるもの。日本式だったら木の幹が邪魔して入れない〜。郵便受けもよく見たら凝ってました。うちの近くの小さな村にて撮影。


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