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忘れられない小説はありますか?

「たくさん本を読むことはすごいことである」、というイメージってありませんか?

私は強くそう思っていました。たくさん本を読まなきゃいけない!とずっと思い込んでいたのです。月10冊本を読むことを目標にしていた時期もありますが、一度も達成できたことがない自分を残念に思うことすらありました。

ところがある日、「読書とは多読のことではなく、何度も同じ本を読んで、理解を深めていくことである」という見解を耳にして以来、多読家ではない自分を後ろめたく思うことをやめました(笑)。もちろん多読家の方はとても素敵ですが、あくまでも自分が自分に課していた、たくさん読まなければならないという思い込みを捨てたということです。

というわけで晴れて自分の足枷が外れた私は、堂々と自分が愛してやまない本を紹介しようと思います。不定期で勝手にお気に入りの本について綴っていきます。もし同じ小説が好きな方がいたら、お話できたら嬉しいです。今日は、この書き出しで始まる小説についてです。

蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。 


そう、宮本輝著の「錦繍」です。珍しい書簡体(手紙のやり取り)の小説です。「蔵王」や「ドッコ沼」という言葉の響が、どことなくザワザワとした気持ちを呼び起こさせ、何か唯ならぬ過去を抱えている二人が再会してしまったことが如実に伝わってきます。

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手紙の主は有馬靖明と勝沼亜紀という元夫婦。ある悲劇的な事件をきっかけに離婚し、今は全く別の道を歩んでいます。ただお互いに環境は変われど、あの事件から前に進めずにいます。それが書き出しの通り、蔵王のドッコ沼に向かう道中、偶然に再会し、勝沼亜紀が有馬靖明に手紙を出すところから物語が動き出します。

手紙の中に綴られていることは、「あの時思っていたけれど言えなかったこと」や「実は伝えていなかった秘密・事実」など過去の話に加えて、「手紙を書きながら何を思っているか」「手紙が届いてから手紙を書くまでの間に起こったこと」などの今現在の話に大きく分けられます。そして、物語の構成として、生死という時間軸も複雑に張り巡らされています。自殺した由加子やすでに亡くなっている勝沼亜紀の母、そして有馬靖明の臨死体験や、亜紀がモーツァルトの音楽を聞いた時の想いがその例でしょう。

二人がとまどいながらも素直に感情を分かち合う中で、お互いが過去を受容し、癒され、未来に向かって少しずつ歩いていく様子が本当に美しく、読み手は彼らと共に時空を旅しているような感覚に陥ります。書簡体という形態なので、まさに他人の手紙を覗き見ているような、一種の罪悪感やスリリングさが物語のアクセントとなり、一度読み始めると止まらなくなってしまうのです。

中でも私が最も感動した部分は、一番最後の勝沼亜紀からの手紙に綴られている自身と父とのやりとりです。二人で亡き母のお墓参りをした後に、料亭で初めて父に有馬靖明と手紙のやりとりをしていることを告白し、現夫との離婚を決意する場面です。父・夫・息子に対する全ての愛情が凝縮された場面で、温かさと未来に向かって歩き出す力強さを感じていつも涙が溢れるのです。

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石田ゆり子さんの帯にある通り、まさに永遠のラブストーリー。男女間だけのラブストーリではなく、人間関係全てにおける真のラブストーリーです。読む度に感じる新しい感情を楽しみに、これからも何度も読み直そうと思います。

ご精読いただきありがとうございました。感謝を込めて。


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