観察カードをスモールステップで学習する
さやか星小学校 教務主任・第1学年担任 島岡次郎
生活科で、バッタの観察カードを書きました。以前から思っていたのですが、「観察カードを書く」は、非常に複雑な行動連鎖が必要な難しい課題です。まず、観察をし、観察対象の特徴を発見するというスキルが必要です。次に、発見した特徴を文章化するという、高度な国語のスキルが求められます。最後に、昆虫の美しくも複雑な身体の絵を描かなければならないのです。これは、きちんと課題分析を行い、行動を切り分けて学習を進めていかないと、観察カードが嫌いになってしまう。そこで、今回は「絶対に誰も躓かない楽しい観察カードの授業」を目指して、スモールステップの単元計画を組み立てました。
最初にバッタの観察をします。誰もがバッタの特徴にポンポンと気づけるわけではありません。何を見れば良いのか、何を発表すれば良いのか分からず置いていかれてしまう子もいます。そこで、一番上の写真のように、バッタをみんなで観察し、気付いたことをどんどん発表していく授業を行いました。もちろん、「身体のつくり」「動き」「色」といった観察のポイントは伝えた上で行います。たった45分間で、ホワイトボードは子どもたちの発見で埋め尽くされました。これは、みんなで発見したので、誰もが観察カードに書いて良いことを確認しました。これで、観察が苦手なお子さんも安心です。
次に、観察した内容を文章にします。まず、観察した内容の中から、自分がカードに書きたいものを選びます。例えば、「めが まっくろ」という発見を観察カードに書きたい子がいたとします。これを観察カードに書く場合、どのような文章にすれば良いかを、全員で話し合います。すると、なんやかんやで「めの いろは くろだった。」のような文章になります。単語の羅列ではなく、主語と述語、助詞を組み合わせた文章で表現することが観察カードでは必要なことを、何度も確認します。これを繰り返すと、沢山の文例がホワイトボードに書き出されます。この文例は、自分が観察カードを書く際に参考にしたり、そのまま書き写したりしても良いことを伝えました。これで、文章を書くのが苦手なお子さんも安心です。
最後に、バッタの絵を描きます。ここが一番の悩みポイントでした。バッタの身体の構造はあまりに複雑であるため、よほど絵を描くのが好きで達者なお子さんでない限り、白紙を渡されて「さあ描いてみよう!」と言われたら、心が折れるでしょう。事実、2年生担任のM原教諭は、そうした経験を積み重ねて絵を描くことが嫌いになってしまったそうです。おいたわしや。そこで、「本当にみんながバッタの絵を描けなければならないのだろうか?」と、観察カードの当たり前を疑ってみました。
この学習における標的行動は、「バッタの身体を細部まで観察すること」です。絵を描くためには、よく観察しなければならないから、「絵を描く」という課題になるわけですが、「細部まで観察する」という行動が生起するのであれば、「絵を描く」ではなくても良いのではないかと考えました。行き着いたのが「塗り絵」です。色を塗るためには、細かいところまでじっくり観察する必要があります。特に、バッタの身体には模様があります。一色で塗りつぶせば良いわけではありません。「これはいける!」と思いました。さらに、パーソナライズも仕掛けます。①塗り絵、②脚だけ自分で描く、③頭だけ自分で描く、④頭以外の部分を全て自分で描く、⑤白紙に描く、という5段階の中から、自分の力にあった課題を選べるようにしました。 観察は好きだけれど、絵を描くのが苦手だから観察カードは嫌い、というお子さんはかなりいるのではないかと思います。でも、この課題ならば、絵はすでに描いてあるので安心です。じっくり観察して色だけ塗れば良いので、誰一人として躓くことなく課題に取り組むことができました。
ここまででも大成功なのですが、学習はさらに進みます。一つ目の塗り絵を終えたお子さんが、「次は頭だけ」「次は脚だけ」「身体にチャレンジする!」と、難しい課題にチャレンジする行動が生起したのです。これこそが、最終的に私が狙っていた行動です。いきなり難しい課題に挑戦させようと思っても、それは無理な話です。確実に達成できる課題から少しずつスモールステップしていくことが必要です。この単元では、全てのお子さんが、その子なりの次のステップにチャレンジすることができました。私は、それが一番嬉しかったです。また、あるお子さんは、45分間かけて丁寧に観察をして1枚の塗り絵を完成させていました。それほど集中してじっくり観察することができたのですから、これも素晴らしい学習だったと評価して良いでしょう。 「あの子には、観察カードは難しすぎる。」と、子どものせいにするのではなく、課題の達成に必要な行動を課題分析し、必要な学習を用意する。「当たり前」のことなのに、「当たり前」になっていない学校の「当たり前」に、これからも挑戦していこうと思います。「学び手は常に正しい」のですから。