SNSで得られる「つながりの感覚」は錯覚。

SNSとの向き合い方。

人間の原初のコンテンツは「他人」。
教養や趣味がないと、話題は常に「顔を知っている人間のゴシップ」になる。
老人の家庭での会話を思い起こして欲しい。話題はご近所のゴシップ、有名人のゴシップだ。

手のひらに収まるコンピュータを全人類が手にしてやっていることも、知り合いの情報を集めること。
つまりフォロワーのツイートを見ること。それがスマホのSNS。
そしてSNSがもたらしたのは、「つながりの感覚」を1秒で得られること。

人間はテクノロジーで常に「つながりの感覚」の範囲を拡張させてきた。集落しか知り合いのいない世界から、橋ができて違う集落とも知り合って、馬車ができて、手紙ができて、車ができて、つながれる範囲がどんどん広くなった。そしてSNSとスマホで、世界中がつながれるようになった。twitterの知り合いのツイートを見て、つながりの感覚をすぐに得られるようになった。

でも気をつけなければいけないのは、その感覚は錯覚だということだ。

リプライのようにやりとりをしているならコミュニケーション。しかしTLを見てつながりの感覚を得てしまうのは錯覚。
なぜならその人ツイートは今あなたに話しているわけではなく、その人の少し前の言葉を記録したものを、あなたが勝手に見ているだけだから。つながっている気分、コミュニケーションしている気分になれてしまう仕組み。

その上で、人類はスマホを取り出して1秒でtwitterを開けて「つながりの感覚」を得られる状態を、おそらく持て余している。

この状態は、小学校のクラスでいちばん絵がうまかった子が美大に入って絶望するのに似ている。村の知り合い程度とつながれていれば人間には十分なのに、コンビニのパンの写真をツイートしただけで5000いいねとかつく人間が目に入ってしまう。
「より多くの人とつながっている人」と比べてしまうのだ。

いいねで得られるつながりの感覚、これにも中毒性がある。
他人とつながっている証拠を得ることに傾倒してしまう。
その先にあるのは、自分がなくなることだ。

スマホとSNSはすべての人に「発信の機会」を与えた。しかしほとんどの人は、発信に慣れていない。だから発信して認められたくても、どうしていいかわからない。
その先にあるのがいいねをもらうためのツイートと、すべてのツイートをチェックしないと気が済まない状態。
「つながりの感覚」にはそれだけの中毒性がある。

行き着く先は、「つながっていないと不安になる」状態。ツイートを見ないと、いいねがつかないと不安になる。これは本来ならなかった不安。

これに対処するためには、2つコツがある。

1つ、「大人数とつながろうとしない」。
仲の良い数人とリプライできれば満足、くらいに思っておく。フォローを絞る。

2つ、「本当のひとりの時間を設ける」。
SNSを見ない時間をつくる。電車の中、休憩時間、指がtwitterのアイコンに伸びていたのを止める。
では代わりに何をしたらいいか。
「読書」。
本を読んでいる間は、誰のことも、誰のウケも気にしなくていい。本の内容に集中して、自分の思索に集中して、本当にひとりになれる時間が読書。

「つながりの感覚」は強烈な魅力があり、SNSはそれを擬似的に簡単に得られるところに中毒性がある。本当のひとりの時間を取り戻すことで、本来いらない不安に襲われることが減る。
自分を取り戻すために、本を読もう。窓の外を見よう。twitterのアイコンを4ページ目に移動させて、スマホを見ない日帰り一人旅をしよう。
そうしてSNSに左右されない自分を確立して、SNSがなかったら出会えなかった友人とのつながりを不安なく楽しもう。

いただいたサポートでえっちな作品を購入し、私の小説をよりえっちにします。