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君の夢を、聴かせてよ。

ぷしゅ。

待ちきれなかったみたいに、泡が缶から飛び出してきた。

君があわててビールを小さなグラスに注ぐ。

おしゃれなホテル特有の間接照明が、いつものビールをよりいっそう鮮やかなオレンジ色に照らしている。

私たちはおそろいのグラスを持って、窓際のソファーに向い合わせに座った。懐かしいふかふかのソファーに、私たちのからだは思ったよりも深く包み込まれた。

「乾杯」

「乾杯」

小さな声で言って、小さくグラスを鳴らす。一口飲んだ。麦のにおいが鼻からふわっと頭の上まで広がった後、お馴染みの苦みに背中からすうっと力が抜けた。思わずふたりとも同時にふうっと息をついて、そのタイミングの良さに目を合わせて笑った。

窓の外に目をやる。こんなに遅い時間なのに、ビルや車の明かりが星空みたいに窓全体を照らしている。遠くに見えるのはスカイツリーだ。いかにも都会といった感じの夜景の手前には、窓ガラスに反射する君の姿が映っている。

少しくたびれた灰色のTシャツにゆったりした紺色の短パン。いつも通りのラガー缶。おしゃれなホテルの内装にその恰好は少し不釣り合いにも見えた。今朝あんなに真剣にそったばかりのひげはもう伸びてきている。君はそれを確かめるように頬をすこしかいて、グラスに残ったビールをきゅっと飲んだ。そして間髪入れずに次の一杯をグラスに注ぐ。オレンジ色のなかで泡がぷかぷか踊っているのを眺めながら、私は君に声をかけた。

「・・・大変だったね。」

ビールを注ぐのを一瞬止めて、君がこちらを向く。

「うん、大変だったね。」

中途半端な位置まで注いだビールを一口飲み、君は微笑んだ。

「でも、とっても楽しかったね。」

君の笑顔にうなずきながら、私は一年前の今日の出来事を思い出していた。

***

「そんなに飲まないでよ。」

ティアラの位置を直してもらいながら、私は鏡ごしの君に声をかけた。君は鏡の端っこで椅子に腰掛け、メモ用紙に視線を落としたまま、うーん、とつぶやいた。肯定なのか否定なのか分からない。そもそも、聞いてもいないかもしれない。理由はわかっている。新郎あいさつをつっかえずに言えるかどうか、そのことで頭がいっぱいなのだ。

「あら、新郎さん、弱いんですか、お酒。」

お強そうなのに、と、メイクさんは笑った。

「弱いわけじゃないんです、ただ、酔っぱらうと、いつも気が大きくなって、」

なんかばかでかいことを語り始めちゃうんです、ねえ、優くん、と、私はまたちらりと君を鏡ごしに見た。

また君はうーんと唸った。軽い拒絶なのかもしれない、と私は思った。その名の通り優しい君が、先輩や友達から注がれた酒を断れるとは思えない。

君と私が出会ったのは、大学のサークルの歓迎会だった。あの日、私は授業が思ったより長引いて、少し遅刻してしまった。居酒屋にたどり着いたとき、一年先輩の優くんはもう出来上がっていて、建築学科の卒業製作で優勝するだの、街のシンボルになるような建物を設計するだの、なにやら大声で語っていた。

大きな声で笑う人だな、が、第一印象だった。そしてそれは正直、ちっともいい感じではなかった。

それなのに、次に会ったとき、君は人が変わったように穏やかだった。少し伏し目がちに微笑んで、オチもない私の話をにこにこと聞いてくれた。笑うと眉毛が少し下がり、目じりにくしゃっとしわができる。たぶん、あの笑顔にやられたのだ、と思う。

寡黙でいい人じゃない、と、母は言った。今時なかなかいない、紳士みたいな人だね、とある友達は言った。(同席していた同じサークルの子は、少しにやにやしながらこっちを見た。)

もちろん、げらげら笑う君だって、大好きな君だ。

けれど、親にも友達にも、あまり見られたくない。今日だけは、紳士のままいてくれたら。

相変わらず下を向いたまま、必死にぶつぶつ呟いている君を見ながら、私は祈るような気持ちになった。君の手のなかで、いつのまにかメモ用紙はぐにゃんぐにゃんになっている。

***

「・・・えー、二人は本当に我がサークルのヒーローとマドンナといったところでありまして、今日この日を迎えたのは、まさに運命といったところでしょうか・・・」

乾杯のあいさつをしてくれたのは、二人の共通の先輩だった。卒業した後もふらっと飲み会に現れては気前よく奢ってくれた、面倒見のいい先輩。

居酒屋で付き合っていることを同期にばらされたとき、大声でばんざーい、と叫ばれ、結婚式には呼べよ、挨拶するから、と言った。はい!と大声で返した優くんは、真っ赤になって身体中から汗をかいていた。遠い昔なのに、昨日のことみたいだ。

「・・・新郎の優くんは、いつもは穏やかな好青年なんですが・・・なんですがこう、ねえ、お酒を飲むと、ね・・・」

先輩はそう言って、いたずらっぽく優くんを見た。あーあ、’フリ’が来た、と私は思った。一番遠くの席で、母が少し目を大きくしているのが見える。

君は一瞬こちらの気配をうかがった後、眉毛を下げてくしゃっと笑顔になる。先輩は意外なほど優しく微笑み返すと、あいさつを続けた。ユーモアにあふれたエピソードの数々を披露した後、先輩は高らかにこう叫んだ。

「それでは、二人の門出を祝して、乾杯!」

「乾杯!」

その声は、少し狭い会場にまるく響いた。何度も二人でうんうん唸りながら決めたゲストの人たち。ひとりひとりが、最高の笑顔でグラスを掲げてこちらを見ている。きらきらした金色の泡も、シャンデリアの光を纏って拍手している。

私はからだのすみずみまでいきわたるようにシャンパンの香りを吸い込んだ。肺の奥にきらきらが届いて、鎖骨から肩にかけてふわりと力が抜けた。

ああ、今日は忘れられない一日になる。

高砂からもう一度まわりを見渡して、私はそう思った。喉をしゅわしゅわした泡が駆け抜けていった。

***

形式通りのプロフィール紹介を終え、司会の人が、しばしご歓談ください、と言った。

友人たちがわらわらこちらにやってくる。手にはお決まりの瓶ビール。

もうどうにでもなれ、と私は思った。なにがあっても笑顔でいよう。それがたぶん、私にできる一番の役割だ。

だが、そのとき、意外なことが起こった。

ようよう、飲めよ、とか、お酒足りないんじゃないの、とか言う癖に、優くんのグラスには一向にお酒が注がれる気配がないのだ。

みんな一瞬瓶を傾けて、数ミリだけグラスにビールを注ぐと、素早く瓶を引っ込めてしまう。乾杯、とグラスをあてるけれど、飲む暇のない速さで祝福の言葉を投げ掛けるのだ。

数センチに満たないビールが注がれたグラスで、何度も交わされる乾杯。

私は可笑しくなった。同時に、少し涙が出そうになった。今日という日をきっと大切に思ってくれている、大切な人たち。

「優は、すごいね」

声をかけてくれたのは、優くんの同期だった。

「サークルの飲み会でいつも言ってたじゃん。30歳までにコンペで入賞するって。まさに有言実行。」

ああそうだ。

ついこの間、優くんはコンペに入賞した。いわゆる若手の登竜門というやつだ。結婚式の準備と時期がだだかぶりしたために、何度も喧嘩になった。来年にしてくれないかな。そう言いたい気持ちを、ぎりぎり抑えていた。

私はくっきり思い出す。チェーン店の居酒屋で、優くんがひときわ大きな声で叫んでいた夢。

やっと分かった。

来年じゃ、間に合わなかったのだ。

口下手で、すぐに黙り込んでしまう。そのくせお酒を飲むとばかでかいことばかり言って、とおもっていた。でも、そのうちのいくつかは、たしかに、叶っていた。げらげら笑いながら語った道を、君は確実に歩いていた。

***

「結婚式場を作るよ。」

うっかり三本目の缶ビールを開けた―コンビニのかごに三本も入れた時点で確信犯なのだけれど―君が唐突に言った。姿勢がぐんにゃりして、もはやソファーと一体化している。

「ほら、めっちゃきれいだったじゃん、乾杯のときのシャンパン。あの輝きを、会場全体に広げるんだ。会場の上側面に水を通して、水ごしに自然光が入るようにすれば、会場全体がシャンパンみたいになる。いや待てよ、もしかしたら・・・」

息をするタイミングすらない速さで、君が語っている。君のまなざしは、今、ここではないどこかを見ている。

たぶん、こんな夜がたくさん来るんだろう。

それもそれでいいかもしれない、と私は思った。

口下手で、すぐに黙ってしまう君が、お酒の力を少し借りて見せてくれる、ばかでっかい世界。

その世界を見るためなら、何度だって乾杯してあげる。

君の夢を、聴かせてよ。


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