ひとりで居るのが好きと ひとりで居るのは違うこと。
子どもの頃、自分はまるでバベルの塔に住んでいると思っていた。
自分の言っていることは誰にもうまく伝わらない。自分の言いたいことは誰とも分かち合えない。そう思って、自分の事を語るのを控えてきたように思う。
最近、久しぶりに会った友人から「さやかは、こっちから聞かないと話さないから。時々、そんな経験してたの?そんな事あったの?って、後からびっくりするよ」と言われた。
自分にとっては、何がそんなにびっくりされる事かは分からない。私の人生はいつも平凡で、人に話すような出来事は何もない。
…と、ここまでは私個人の特性というか個人的な経験から育まれた思い。
ここから少し話は変わるけれど、先日何の気なしに見ていた「トラウマインフォームドケア」のリーフレットに、日本では国民のおよそ60%がトラウマを体験していると言われています、と書いてあった。
どういう調査をしたらその数字が出てくるのか分からないけど、トラウマというと、それこそ生死にかかわる体験をしない限り「私にはトラウマがあります」とは言いにくいのではないか。
そこには付随して、患者さんのケアに当たる支援者も、トラウマや傷つきを抱える可能性があると書かれていた。具体的には次のようなことがトラウマやそのきっかけに当たるらしい。
こうして見ると、この表の「支援者」の欄に書かれていることは、全て一通り体験した。
暴言や非難は常に受けるし、時には暴力も受けた。
隔離や身体拘束もたくさん見たし、自分のしたことが間接的に隔離や身体拘束に繋がったのではないかと、今でも心に引っ掛かっていることがある。
利用者さんに十分なケアが出来ず無力を感じるのは常日頃のことだし、利用者さんのトラウマ体験や傷付きに耳を傾けるのが私の仕事だ。
利用者さんの自死も事故死も病死もたくさん見てきた。もしもあの時電話をかけていたら、家にかけつけていたら、あと数時間早く会いに行けたなら…。どうしようもない「もしも」を、何度考えたか分からない。
そうしてその痛みを抱えながら、大切な人の死に苦しむ人たちの声に耳を傾けた。「ぼくも、わたしも死にたい」その言葉に、ただじっと耳を澄ました。
性被害の話を聞くのは、正直一番苦手な仕事。仕事が終わってからも、気分が落ち込んでなかなかその話は頭から消えてくれない。加害者の話を聞くのは、もっと苦手。
それから、仕事柄知らない人の家に単独で訪問することが頻繁だったから。訪問中にアダルトビデオを流されるとか、女性のそういう写真が壁にたくさん貼ってある部屋に通されるとか、玄関空けたら全裸だったり、ちょっと言えないような場面を見せられたこともある。
どれも割とはっきり覚えていることを思えば、自分の心に何かしらの傷を残しているのかも知れないけど。
でもそれが、重大なことだとは思ったことがなかった。
いちいち人に話したりしないし(話してはいけない事もあるし)そもそもそんな気が滅入る話、誰が聞いてくれるっていうんだろう。
そういえば私や私の仲間は、頻繁に飲みに行ってわいわいするタイプではなかった。どちらかと言うと、一人で山に登ったり、走ったり、みんな孤独を好むタイプなんだと思っていた。私も、いつも一人で山や川に行くのが好きだった。でも本当は孤独が好きなんじゃなくて、孤独にならざるを得なかったのかも知れない。
あまりにも辛い話は、酒の肴にもならない。涙なしに言葉にならないこともたくさんあるし、どうやって言葉にしたら良いか分からないこともある。
だから誰かといる時は、いつもまるで傷付いてなんかいないような顔をして、痛んだことなど忘れたようなフリをして過ごして。
そうして一人になった時だけ、その“フリ”を止められた。
だからみんな、孤独になりたがった。
でもそれは本当の意味で孤独を望んでいた訳ではない。誰かといるよりは、マシだっただけ。
これでも最近になって少しずつ、自分は自分の手当てを丁寧に出来るようになったと思っていた。でも、あともう少し、癒してあげてもいいのかもしれない。
私は孤独なんか好きじゃないって。心配しないで言えるように。