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綻びのみつけ方とその脱ぎ捨て方について








私って思ったより社会耐性ないのかも。

社会人になって2ヶ月経ったころぽろっとそんな事を思った。




学生のころ、休日に楽しみを見いだして平日苦しんで仕事をしている大人たちを見ていて、私は仕事をはじめたらきっと楽しんじゃうだろうし、頑張っちゃうんだろうな、なんて気楽なことを考えていた。部活動で厳しく扱われて、部の仕事もしながらそこそこ生活を楽しんできた身だったからだ。朝8時から夜の12時過ぎまで予定がぎちぎちでも、平気だった。「忙しい」がデフォルトで、暇が苦手な人間だった。



重度か軽度か差はあるが、生きづらい人が身近にそこそこいて、理解したいというエゴを抱えながら、身を寄せあって生きる温かさを与える側だと思っていた私は、実は多分に愛を享受する側の人間だったのかもしれない。温もりがないと生きていけないのは私だったのかもしれない。





私が入社した会社はスピード感があって、向上心を持ったエネルギーのある人が多いところだった。そうしたところにずっと憧れがあったし、適性があると思って生きてきた私なのに、


ある日突然壊れてしまったみたいに涙が止まらなくなってしまった。


帰りの電車で潤み、ご飯を食べながら泣いた。起きなくてもよい早い時間に目が覚めて、眠れなくなった。
長らく、他人の評価軸だけが存在を肯定していると認識して生きてきたから、常に頑張ることに疲れちゃったのかもしれない。









唐突に限界を迎えた時の対処法ってなんだろう。












結局私は同期に弱い自分を吐露して、温かさを切り分けてもらって、よく分からないまま元気になって戻ってきた。

「仲のいい人達に、めんどくさくてごめんという気持ちが常にある。心配して欲しいわけじゃないし、慰めて欲しいわけでもない。
そーなんだ〜元気ないの?でもそのうち元気になるんでしょう?
って思ってて欲しい。
とっても浅いところでコトを考えてたり考えてなかったりして、緩やかな落ち込みに浸って」ちょっとだけ自分を落として、自分でかけた期待や結果が掴めなかった時の予防線を張っているだけだから。











学び。

潰れそうになる前に、小さなサインに敏感になること。唐突にやってくる限界は、実は小さなムリの先にある。
例えば

「いつもは眠くならない時間に眠くなっちゃう」とか

「衝撃を受けた感情をその場できちんと処理できない」とか
(受けたショックを感情として受け止めるのではなく、消化するためにその場できちんと言語化しなくてはならない)

「急に人と自分を比べはじめてしまう」とか

「いつもより足が浮腫んでいる」とか

「髪の毛がぎしぎしだった」とか

「手足が冷たい」とか










よく考えたら今まで肌が強かったはずなのに、身体中に帯状疱疹が出来て悩んでいた。身体は「ムリ」を発してたんだ。心の異常より小さい見逃しがちなムリを感知する力を養って、緩やかな回復を繰り返すことで、週単位での落ち込みはもっと減らせるはず。


そしてそれでも落ち込んだ時は大抵誰かに頷いてもらって、早く寝たら回復するので、何も出来ていなくてもとりあえず吐いて眠るのが良い。誰でもいいので「きついよ〜」って言うだけで随分と変わる。さらにこんこんと寝続けた先に待っている忘却の神様が、私に「回復」という名の羽織をかけてくれる。






いいこともわるいことも刹那的なものであって、終わったことに思いを馳せたり枷を感じたりする必要はあまりないのだと思う。引きずる必要も無い。
私たちは常に、これから起こる「いいこと」を見つけていくべきで、頑張りすぎず前にとりあえず進んでいけば良いのだ。

Fortunato l'uom che prende 
Ogni cosa pel buon verso

''あらゆることを良い方に考えることができるのは幸せ者だ''

オペラ コジ・ファン・トゥッテより


「愛」や「死」が今よりもっと軽かった時代や、今日明日の予定を必死に紡いでいた頃には存在しなかった混沌が、今を複雑に生きづらくしている。もっと単純に、例えばYES/NOで物事を決めるような勢いで生きていけるようになることが、私の小さな目標になるかもしれない。「今」に集中出来たら、周りがもっと見えなくなって、やりたいことしたいこと好きなことだけ手元に残るはずだから。

物差しを他人に置かなくてもいいほど、夢中になれる瞬間をもっともっと探して。

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