「人生に失敗はあっても、失敗した人生なんてないんだよ」

2021年4月クールでイチオシのドラマ
「大豆田とわ子と3人の元夫」を観て
ややトラウマに近い
遠い記憶が蘇ったので
ここで向き合った証をしたためようと思う。




私はいつも
どこか不安で
身の置き所がない気がしている。



あの行動は正しかったのか。
明日その人がいなくなっても
私は後悔をしないのか。



そんなとき
無性に夫の背中に触れたくなって
彼の体温を感じる頬で
自分の在処を確かめるのだ。


こんなふうに
自身の有り様に苛まれるようになった
一つのきっかけは
ある友人の「死」である。




私が大学に入って間もなく
小学校の同級生が亡くなった。



彼女とは
小学生の時には同じ塾へ通い
中学では同じ部活に入っていた。

母親同士が先輩後輩で
弟同士は同級生だった。

こんなに共通点があったのに
私は彼女のことが
とても好きで少し嫌いだった。


身長が高く栗毛で
屈託なく笑い、面白いことを話す彼女。

笑いも取れないし背も中途半端で
勉強と運動は負けないけれど
なんとなく引け目がある私。

それでもまだ
小学生の頃までは彼女が好きだった。


溝は決定的になっていったのは
中学の部活で私が部長に、
彼女が補欠になった頃だった気がする。

彼女は練習をサボり
部活に来ても真面目に練習をしなくなった。


そんなことをする子ではないと思っていたから
私はひどく混乱したし
自分の統率力のなさに挫折をして
その責任転嫁を彼女にした。







そんなある日
彼女は学校に来られなくなった。





白血病だった。




そんな映画みたいな話ある?と
しばらく実感が湧かなかったのを覚えている。


母からは親同士の情報交換を経て
逐一彼女の容体を聞いていたが
私はそれを聞くたびに
これまでの行いを責められているような気がした。


彼女は練習をサボっていたし
無断欠席もしていたし部の雰囲気も乱していたし
ふざけてもいたし手を焼いていた。
それは確かなはずだった。


でも、そのうちのどれかは
病による倦怠感や疲れだったのかもしれないし
もっと接し方があったのかもしれない。


もはや分かることはない後悔がぐるぐると巡って
彼女のこれからへの不安と
取り戻すことのできない後悔で
毎晩ただ涙が止まらなかった。


千羽鶴を折っても
手紙を書いても
どこかにあったかもしれない
自分の不始末を回収しようとしているようで
気持ちが悪かった。


彼女が入院をしてから
急に親友を名乗り始める子を見て
嫌気がさしていたし
同じようになりたくなかった。






そして彼女は
闘病しながら高校へ進学し
大学受験も目指していたが
入学が叶わず、逝った。


これで永遠にひっくり返ることのない
「後悔」が出来上がったのだ、と
そう思った。






毎年命日の頃になると
時が止まってしまった彼女と
彼女が生きるはずだった時間を生きている自分に
複雑な想いを抱えながら
歳を重ねている。

歳を重ねることでしか
消化できない、「死」なのかもしれない。


そして
前向きに、ごくごく前向きに考えれば
彼女の死は
幼い頃傲慢だった私が
人生を大切に生きるための
一つのおまじないになったのかもしれない。

残念ながら
彼女の死に接して初めて
生きていることの尊さと
他人に接する一瞬に後悔しない覚悟を得られた。






本当に
人は必ず死ぬし
大切な人が永遠にいる保障はどこにもない。
突然会えなくなってしまうことは現実に起きるのだ。

あのかごめのように。

そして思うのだ。
彼女の生きられなかった分を
やり残したはずの分を
ちゃんと生きなくちゃ。

だから苦しかった。ずっと。








そこに来て このドラマである。

「人生って小説や映画じゃない。
幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかということだけです。
だから人生には2つのルールがある。
亡くなった人を不幸だと思ってはならない。
生きてる人は幸せを目指さなければならない。
人は時々寂しくなるけれど、人生を楽しめる。
楽しんでいいに決まってる。」


やられた。
全私が心の中で号泣した。
思春期だった私が泣いた。
今この文章を書いてても泣きそう。


ありがとう。まめ夫。
あの頃の私は救われたし
これからの私は一層救われた。


なかったことにはしない。
でも全力で、人生を楽しんでやろうって思うよ。

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