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「語彙力を鍛える」「文章は接続詞で決まる」を読んで考えたこと

今年は自分の文章と向き合ってみようと決めて、最初に手にした本が日本語研究者である石黒圭さんの著書だったのは正解だった。専門的な内容であることは間違いないのに、理解がちゃんと追いつく分かりやすさ。読書苦手な私が、サクサクと二冊も読んでしまった。

私は母国語が日本語で、英語も話せるようになり、そして現在は第三言語として手話を習っているのだけど、どれを使っているときにも「やっぱり言語は面白いなぁ」と思う。個人的に日本語は″話し言葉″にかんしてはとても簡単な言語だと感じていて、たとえば発音が悪くてもめちゃくちゃな語順でも通じるし、面倒な冠詞もないし、てにをはを間違えていても、まぁそれほど大きな問題にはならない。

しかしこれが″書き言葉″となると、一気に難易度を上げてくるのが日本語だ。3種類の文字体系で英語よりもパッと見での理解はスムーズだけど、文法や語彙表現の高い柔軟性が「伝わりやすい文章」と「精密度の高い文章」のバランスが取れた仕上げ方を複雑にし、書き手を悩ませる。

語彙力を鍛えることは「精密度の高い文章」に生きてくるし、接続詞を使いこなせれば「伝わりやすい文章」が書けるようになるのだろう。

最初に読んだ『語彙力を鍛える 量と質を高めるトレーニング』で分かったのは、書き手として「なんか違う気がする……」と違和感を覚えたときに見直すべき視点だった。(違和感がなくても推敲時には常に持っておきたい視点でもある)

タイトルにあるとおり、本書は語彙を増やす方法だけではなく、その″質″を高める方法についても書かれていて、ここにはWEBライターが仕事を評価される上で基本となるポイントがふんだんに含まれている。

・起業は最初の出発点が大切だ。
この文を読んで、おやっと思う感覚が大切です。
文章における語彙選択の基準は、文脈に合うかどうかです。

これらは基礎的な推敲ポイントだけど、さらに本書には、WEBライターを飛び越えた、もっと自由な書き手としての成長に役立つ語彙の探り方(質の高め方)も書かれていた。

WEBメディアで書いていると、使う語彙が限られてしまうことがよくあると思う。それはGoogleに媚びるための単語だったり、レギュレーションに沿っていたり、あるいは流行の言い回しだったりするんだけど、書く場所を″そういう系のWEBメディア″に限定していると、語彙の質はわりと簡単に頭打ちになる。

そういう系のWEBライターが語彙の質を高めるためにはGoogleへの媚びともレギュレーションとも切り離した場所で書くことが必要で、その中でとことんまで語彙を探って、自分の文章の精密度を高めてみる。これがもっと広いくくりでの″書き手″として成長していく方法なのかもしれない。

二冊目には、『文章は接続詞で決まる』を手に取った。こちらは自分が感覚として分かっていたことを理屈に落とし込んでくれる爽快感が心地良い。そうそう!そうなのよ!と頷きつつ、果たして自分が持っている感覚は正しいのか?という答え合わせにもなった。

接続詞で問われているのは、命題どうしの関係に内在する論理ではありません。命題どうしの関係を書き手がどう意識し、読み手がそれをどう理解するのかという解釈の論理です。

自分が伝えたい内容を間違った解釈で捉えられてしまうのは、とても悔しい。話し言葉なら「あ、違うの。そうじゃなくてね……」とすぐに表情なども使いながら訂正できる。しかし書き言葉は、読み手の脳や心に、ダイレクトに文字を打ち込んでしまうので余計に悔しくなる。

文章は読み手に届いた時点で書き手の所有を離れ、「読み手のもの」にもなる。そしていったん読み手のものになった自分の文章は、必ずしも取り返せるわけではない。最終的にどう解釈するかは読み手の感情や経験、価値観によっても変わる。だから少しでも、自分のところから離れていく前に、できる限り精密に仕上げたいと思う。

著者は本書のなかで接続詞を四種十類に分け、それぞれの接続詞がどのような機能を持ち、どう使えばどんな理解を促せるのかまで細かく伝えてくれている。

では、どのように「のだ」をつけたらよいでしょうか。大切なことは、一般の接続詞と同じで、理解者の立場に立って調整することです。ここまで読んで初めて説明の全体像が見えたというところに「のだ」をつけるとよいと思います。

こうした説明を読み進めていく中で、「なるほど!分かりやすい!」と思う反面、接続詞を上手に使いこなせない自分が情けなくもなった。そんな自分のために、自分の文章に妥協するのはやめたい。

なぜなら最初の読み手となるのは、いつだって自分自身だからだ。頭や心の中を言葉で表そうとして、「ちょっと違うけど……」と表現に限界を感じて妥協してしまうとき、自分との対話をぶった切ってしまったような、自分を雑に扱ってしまったような気持ちになる。

自分の文章と向き合うことは、自分を大切に扱うこと。まずは私が、私という読み手に伝えきれる書き手になりたい。

最後にもうひとつ、書き手のセンスを磨いてくれるのも接続詞なんだと思う。このセンスについて、著者がさまざまな小説の一文や歌詞を例として挙げ示してくれているのも、本書の読みどころとして付け加えておこう。

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