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【十字軍の城★放浪記】マルカブ城/シリア

قلعة المرقب

地中海に面したシリアの城。別名「見張り塔の城」。
フランス語でマルガット城。
クラック・デ・シュバリエと並ぶ聖ヨハネ騎士団の代表的な城。
クラック・デ・シュバリエが「白の城」なら、こちらは「黒の城」。古の火山跡に建っているので、この石の色はたぶん玄武岩の色でしょうね。

地中海沿岸部の要衝にあり、歴史はフェニキアや東ローマ帝国の時代にまでさかのぼりますが、1062年にアラブ人の領主が現在の基礎となる城砦を建築。その後、第一次十字軍が築いたアンティオキア公国の一部としてこの城を奪取したものの、巨大な城の維持費がかさみ、1186年に聖なるヨハネ騎士団に売却しました。

1187年にサラディンがエルサレムを奪回し、翌88年にこの城を攻囲するも、あまりに堅固なため陥落ならず。確かに見上げただけで攻めるのがイヤになりそうな威圧感があります。

メインゲート。
敵襲を避けるために門は小さく作ってあります。
門の上には油落としの穴と矢狭間(やざま)が見えます。
このような塔が14もあり、
かなり当時に近い状態で残っています。
これだけの規模だと攻囲戦にはかなりの兵数が必要になります。籠城する側はそれを見越して、備蓄もしっかり確保していたでしょうから、攻囲戦が長引けば攻める方が断然不利になります。
内部はかなり廃墟になっていて、草木がもりもり生え放題。シリアぐらいの緯度になると植生も豊かでエジプトとは廃墟の面影が異なります。
メインゲートに続く階段が90度曲がっているのは、敵襲を食い止めるためでしょう。いわゆる天守にあたる部分ですがかなりの高さがあります。
城は海抜500メートルの高台の上にあるので、攻囲する側は足場がないし、まずここにたどり着くまでに見張りに発見されて撃退されちゃいますね。
これは城の内部。石積みで巨大なアーチをつくるのは、12世紀の城砦建築にはよく見られる様式です。
これはメインゲートに続く階段です。
しかし何といっても自然の威力はすごい。
かつての難攻不落の城塞が
今はこうして植物に埋もれているのだから。
こちらは城壁の内部。
手前にあるのは柱の跡か、泉の跡か?この内部に、1186年に築かれたマルカブ教会があります。
礼拝堂跡。上の写真の右側の窓を内側から見たところ。光が漏れる窓から、ごごーっと噴き上げる風の音が、遠い海鳴りのように不気味に響いています。
礼拝堂の天井画です。最後の晩餐の十二使徒たち。衣装がアラブ風?な感じ。
城の上からふもとを見下ろすと、地中海がすぐそこに見えます。沿岸は臨海工業地帯。
それとビニールハウスがたくさんあります。
500メートルの勾配って山登りならたいしたことないけど、鎧を着た兵士にはキツイですね。
この日は天気が悪く、
風がめちゃくちゃ強くて立っているのがやっと。
ヤシの木が荒れまくっています。

場所はこのあたり。現在の国境で言うと、トルコとレバノンのちょうど中間あたりにあります。
アレッポ~ホムス~ダマスカスがシリアの幹線道路なので、ここは海側の守りを固めている要塞。
岩手県もそうですが、内陸部と沿岸部で文化が違う感じがします。

もう少し近づいてみましょう。

直近の海岸からは直線で2㎞ですが、まっすぐ来る道がないので、行軍の場合は6㎞離れた北のバーニヤースから南下してくることになるでしょう。となると、必然的にバーニヤースがこちらの手中にないと、そもそもここにたどり着くのは難しくなります。

無敵とも思われたサラディンが堕とせなかった城砦はいくつかありますが、実はサラディンはけっこう諦めが早いというか、ねばりが足りないというか、わりとすぐ見切って投げ出すところもあったような気がしますね~。

この城を落としたのはマムルーク朝のスルタン・カラーウーンで1285年のこと。工兵が北の城壁に穴を掘って1か月かけて陥落させたとのこと。こういう執念がサラディンにはありません!
そういう意味ではやっぱり、マムルーク朝に比べてアイユーブ朝は脆弱な性格は否めないな~と思わざるを得ません。

Google地図や画像検索ではもっとキレイな写真がたくさんあると思いますが、この日はどんより曇りの風の強い日…。まあ旅をしてるとこんなこともありますよね。

今回はここまで。


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