愛の形の押し付けを受け入れるか否か


愛の形とは。

こんばんは、メンヘラあがり、今もメンヘラなのかわからない午前2時33分、終わりが見えてきた課題から逃げてきたところです。


さっきひとりごとアプリに流した母親との確執にとあるコメントが付いた。


「愛情は人それぞれだけども、受け取る側が辛いって苦しむものを愛情だって言い張ることはできないよ。辛いものは辛いんだよ」


目から鱗だったのと、めちゃくちゃ聞き覚えがあった。


前の彼氏と別れた後に私が考えたことだった。


もろもろの経緯とそこそこの時間を経て、私の愛情の形は歪んでしまった。最初から歪んでたのかはわからないし、この際置いておく。

それをぶつけられた彼氏は当然のごとく私を蛇蝎のごとく憎んで、物理的に手を振り払って逃げ出した。流血沙汰になって本気で痛くて痛くて帰りの電車でボロボロ泣いてしまった。

なんやかんやひどいところは彼にもあったので、すっきりとした気持ちで私は考えた。

確かにあれは愛だった。

けれど、形がまずかった。これは愛なの!と言ってぶつけるボールが一般的に見ても恐らく鉄球レベルに重い、もしくは針山レベルにとんがっていた。

色恋沙汰など当人同士が幸せならおっけーです、第三者は干渉すべきじゃないでしょ、というスタンスの私ですら、最低限の法の存在は薄々と感じている。多分、ルール違反。

追いlineとか、手首切っちゃったり、鬼電とか、こんなことしちゃう理由はもちろんあるけど、『相思相愛の状況を維持する』『自分の愛情を伝えて、相手に理解してもらう』という目標においては絶対に不適切だった。

だから、愛情深いのはいいことだから、次の恋ではその形をまっとうに変えようと思った。「私はこんなに好きなのに!」を落ち着いて「好きだよ」に言い換える。「こうしてくれないなんて愛してくれていないの?」を「こうしてくれると嬉しいなあ」と甘えてみて、してくれたら感謝する。

圧倒的に適切。人間とは学習する生き物。流石詰め込みの机の上の勉強は得意だっただけある。


話は最初に戻る。

母親にハズレの娘と言われて大層落ち込んでいたのだ。まあこれに至っては勉強の時間を確保しながら就活費用をためるために、時給のいい半分ナイトワークのような所で働きたいと言ったのが悪いのだが。

けどこの構図はさっきの元カレと私の構図にそっくりで泣くに泣けない。嘘。電車で往復2時間ずっと泣いた。

私は自分の頭で考えた結果、相手がいることだから、愛情っていうのは相手が辛くなってしまったらその時点でぶつける資格を失う、とした。

母親はこんな私を20になるまで育ててくれたのだからそれは愛なのだろう。

けど私はその愛が辛くなることがある。自分の考えを聞いてくれないこと、受け入れてくれるのは母親自身の狭い価値観の中の事項なだけなこと、外れてしまえば大きく責められてしまうこと。

母親は私に無理をさせたことに薄々気づいている。中学生だったころからの夢への進路を諦めさせたことに少しでも触れそうになると激昂する。仕方ない、彼女は愛ゆえに私に安定した職に付いて欲しかったのだから。その後の人生においてねちねちと責められる辛さは、無理に進学した高校時代に嫌というほど経験したのだから。

愛だと言い訳するしかないほどの関係、恋愛ならやめているし、自分が恋人に強いていたら泣きながら別れを告げている。愛する人を苦しめていたらそれは愛だけれど、愛じゃない。

それが親子関係になるとどうして御恩と奉公みたいなことになるんだろうか。育ててもらったという恩がおかしな愛の形を見えなくする。


私は己が傷ついてしまう愛を恩という名の下に受け入れはする。

こんな不出来な娘なぞをお育て頂きまして、20年ありがとうございました。多大なお金と迷惑をおかけしました。

けれど、屈服はしない。あなたが私を裁くように、あなたの愛は私の中では正しくない。

私は今日も母親の顔色を見ながら過ごす。愛だから仕方ない、とくたびれた口角を引っ張り上げて。

自分の頭で考えだした愛の定義を持っていることに誇りを持ちながら。武士は食わねど高楊枝。襤褸を纏えど心は錦。愛を知れども考える葦。

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