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長崎異聞 2

 長崎は貿易港であり、軍港でもあるという。
 幕府隆盛のみぎりには数少ない、異国への玄関口ではあったが、今や国門開放は国家の基礎である。ここに至り長崎は、横濱や神戸の後塵を被っていると噂にきく。
 幕府末期から動乱の数年を経過して、近代国家に甦ろうとしている。東京においては今や将軍を大統領職とする、共和政政府になっている。後ろ盾が仏蘭西というのは、父の癇癪の種だ。
 その将軍が奉体しているのが西京の明治帝である。
 時期大統領の選挙も近いというが、まずは貴族院の成立と共和国憲法の成立を慶喜政庁は邁進している。
 中央の政治はいいさ、と橘醍醐は思うのだ。
 今や旗本は戦さ駆けではなく、政争の徒だ。
 剣を銃に持ち替えて、護国の礎になるのは醍醐のような、次男、三男坊の食い詰め武士の役目である。しかるに、と醍醐は思うのだ。
 平時においてのこの仕打ちは如何なるものか。
 もう彼は食客というのに飽き、部屋住みの汚名に憂いていた。
 
 中天は既に明るいが、非番となった。
 無為を潰しに、足は東山手に向かう。
 丸菱という株式社中の本社が、そこにある。
 土佐の坂本龍馬が創始した亀山社中が名を変えて、そこにある。
 龍馬自身の行方は幕末の動乱後に所在不明で、誰も分からぬ。
 その社中を預かる頭取を、陸奥宗光という。気障な五十坂の男という。その呑み方がいなせだという噂が長崎奉行所まで届く。彼は紀州藩士の出らしい。
 社中の算盤方を預かるのが、岩崎弥太郎といい、龍馬と同じ土佐っぽらしい。外見に似合わず、堅実な男だという評判が、これも届く。
 
 東山手の石畳を上る。
 路傍の石垣の脇には雨水溝がある。その石垣にはタンポポが喰らいつくように咲いている。その姿はまるで己を暗示しているかに醍醐には映る。
 緩い風が吹いている。
 そこに潮の匂いが混じる。
 鼻腔をくすぐるような芳香がする。
 橘醍醐はもう髷を結ってはいない。
 月代も剃ってはおらず総髪になる。
 腰の大小が無ければ、武士には見えない。肩に届きそうな後ろ髪をただ紐で括っているだけだ。
「落武者のごとき有様」と恐らく兄上は叱責し、紛れもなく醍醐は憤慨する。これは定めのようなものだ。
 石畳に下駄の歯が滑る。
 彼が平衡を失いかけた視界に、赤い革靴が目に入った。
 彼は踏み止まる。痴態を晒すのは侍の沽券に関わるのだ。
「危ないです。ここは苔がすぐに生えるのです」
 辿々しいが日の本言葉である。が、聴いたことのついぞない声音と訛りである。ふり仰げば海中の如き蒼緑の瞳が見つめている。
 白猫が口を利いたかのような衝撃が、醍醐に走った。



 
 

 
 
 


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