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和華蘭ツーリング 4

 大村で生まれた私で。
 歴史好きであるのに。
 大村氏の歴代墓所のある本経寺を始めて訪問した。
 その本堂は1700年代の創建だという。
 蝉時雨が頭上の梢で喧しいなか、この草萌える一角は涼やかな風がある。年季の入った苔が降り積もった年月を示している。
 僅か3万石に満たない所領の大村藩にありて、これらの仏閣の威容は場違い過ぎる。
 そこには禁教令に舵を切った江戸幕府に対しての、小藩の恭順の意が込められている。

 大村純忠がローマ法王へと遣わした天正少年使節団が、長い航海の後に帰国(1590)を果たして見れば、そこは太閤秀吉により天下静謐となった国である。
 
 しかも太閤は伴天連追放令(1587)を布告して、急速にカトリックは排斥されつつある。何の因果かこの年に大村純忠は逝去している。
 実はキリシタン大名関連での記載は、日本人によるキリシタンの弾圧の記述が多い。だが弾圧には因果応報としか思えない理由がある。
 実際には改宗したカトリック教徒は神社仏閣を襲い、焼き討ちを行っている。いや実は純忠自身も兵を率いてそれを行った。
 理由は明確である。
 彼らは一神教であり、他の神仏を赦さない。
 然るに日本の風土としては多神教が伝統だ。

 さらに奴隷貿易である。
 大村純忠ばかりではない。かの大国を擁した豊後の大友宗麟でさえ、治世下の妙齢の婦女子を南蛮に売却している。それで火薬の原料である硝石を贖った。
 売られた婦女子はからゆきさんと呼ばれ、娼館に住まわされ性奴隷となった。彼らにとって異教徒は虫けらと同義なのだから、かの黒人奴隷ですら買えるという単価で、身体が掏り切れんばかりに酷使された。
 そのような仕打ちを受けた領民が、カトリックに向ける刃のような目線が脳裏に浮かぶ。弾圧、の火種は自身の裏側にある。

 この石塔群を眺めていて。
 なぜかボロブドゥール遺跡を思い出してしまった。
 

 
 

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