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記憶


クリニックのプログラムでこの2ヶ月、過去の、あるいは休職に至るまでの出来事というのを年表とレポートにまとめる作業をしていた。先週末、皆の前でレポートを発表して質疑応答を受けるという、精神的になかなかな負担がかかる経験をした。

ぼくの場合、幼い頃の両親の離婚というトピックが、その後のぼくの心を形成するのに少なからず影響しているとずっと考えているので、そのことも盛り込んだ。

多くを自宅でもタブレットを使って書いていたのだけど、クリニックの教室で書いていると、他の参加者は割りと口を揃えて『小さい時のことなんて思い出せんわ』と話すのが聞こえてくる。その点、良くも悪くもぼくは幼い頃のことを人よりも覚えているのかも知れないと、心の中で呟いたりする。

離婚の前後に目にしたこと、そのあと3年くらい住んだ粗末な家のこと、そのことでいじめられたこと、小学校の間、夕刊の配達をしていたこと、その他の些細な出来事。

仲の良い友人もいるにはいたが、ネガティブな記憶は多い。それを思い出すのは辛い。辛いし、少年だったぼくはその想いを周りの大人に話すことすらできずに寂しい思いを当時はしていたのだなと再確認したりして、年表とレポートを仕上げるのに苦労した。

忘れてもいいこと
忘れた方がいいこと

それらはそういうものなのかもしれない。その方が生きるのには楽かもしれない。

ミステリーや児童文学など幅広い作品で知られる作家、ロアルドダールの『少年』という自伝本を、たまたま古本サイトで見つけて購入した。大学の授業で原著を学んでいて、卒業して数年してからずっと和訳が欲しいと探していたのだ。ずいぶん前に出版されたこの単行本はしかし、今は流通していないようで手に入れるのは運に任せるしかないのかと半ば諦めムードにもなっていた。現在は新訳の文庫本が売られているようだが、単行本にこだわっていた。

今日、京都の古書店から本が郵便でとどいた。やっと読めると思うとても嬉しいし感慨のような感情も湧いてくる。何しろ30年も待ったのだ。表紙が和田誠だ。

改めて本人による前書きを読んでみると、
 
『(少年だった頃から)五十年ないし六十年たった今も、そのひとつひとつが記憶に焼き付いている』

『意識の表面から(記憶を)ひょいと掬いとって書きとめるだけ』

『滑稽な出来事もあれば苦痛に満ちた出来事もある』

と書いてあった。

今も手元にとっておいてある学生当時使っていたペーパーバックを開き、なるほど、とその自然な翻訳に感心する。

と同時に、そうか、ダールはそうやっていやなことも何もかもが頭の中に自然に残っていて、それを創作に繋げているんだな、と改めて身体感覚として染み込んでくる。

ぼくと、世界的な作家ロアルドダールを比較するわけにはいかないけれど、ぼく自身こうやって文章を書くことが好きで、実際時々昔のことを綴ったりもする。

傷になった古い出来事を覚えていて、それをまたわざわざ思い出すのは辛いことだけれど、こうしてここに書くことができている。人気ライターとは違って、ぼくの文章を読んでくれるのがたとえ数名であろうと、それはまわりまわって幸せなことなのかもしれない。辛かったことは今は糧になっているのかも知れない。

と勝手に励まされている。

これからも自分は書くことを続けようとひとり思う。

いつかなにかの機会はやってくる。今日のように。


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