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鍾乳洞ハイ

おい、あおい、洞窟探検行ってみいひん?
 
と声をかけてきたのはSさんだ。下宿の二階に住む二学年上の人で、浪人したあおいとは年齢ではひとつ違いだ。大学は枚方市内にあって下宿はそこから自転車で十分足らずの距離だった。アパート、ではなく下宿風情を色濃く残した遺産のような木造の建物だ。学内でも、大学からは京阪電車の最寄駅からは最も遠い部類だということも含めて、そこそこ知られた存在だった。
 
その洞窟、いうか鍾乳洞な、昼は普通に観光客相手に営業してんねんけど、夜は料金所だけ閉めて穴ん中は自由に出入りできるらしいんや。
 
情報が怪しい。ちなみにSさんは兵庫県出身だ。
 
え? そんなんあるんですか?どこなんですか? ん?滋賀の北の方、かなり這いつくばらな入れんとこらしいけどな。え?楽しそうですねそれ、行きます。じゃあ晩の八時くらいにここ出るから、汚れてもいい服着てな、おっきい懐中電灯用意しといて。あと徹夜になるからなんやったら仮眠しとき。
 
Sさんは長身で四〇〇のアメリカンタイプのバイクに乗っていた。あおいのバイクは二五〇で自身は小柄だ。Sさんはベースギターを、あおいはエレクトリックギターを各々の部屋でまあまあ大きい音で弾いていて、たまにあおいの入学前に就職したドラム担当のTさんも一緒に近所の練習スタジオで演奏したりもした。
 
洞窟探検については、汚れてもいい服はジーンズとスウェットくらいしかなく、いつも学校に行くのと大して変わらなかった。懐中電灯は近所の雑然とした二階建ての雑貨屋で単一電池が四本だか八本だか入る赤いのを買った。まだ午後二時で、仮眠はできそうもなく、早めの時間に適当に晩御飯を済ませた。
 
そろそろ行くで、とドアからSさんに声をかけられた。下宿を出てすぐ近くの国道バイパスに乗り、二人で前後しながら二台のオートバイで北上する。京都市内を抜け、大津を過ぎたあたりで八号線を経由し、三〇七号線に入る。街頭も少なく暗い中をしばらく快走して小さな県道交差点を右に折れ、数分行くとSさんは右手を指しながらバイクを止めた。○○風穴(ふうけつ)、と看板がある。
確かに駐車場は整備されているが、夜遅いにもかかわらずチェーンもなにもかかっておらず車の出入りは自由だ。料金所の小さなブースは空っぽで電気は点いていなかった。その先に小高い山が黒々とあり、そこに洞窟の入口がぼんやり見えた。Sさんの言っていた通り入り口には扉もなく、勝手に出入りできそうではあった。あおいは「これ、ほんとに入ってもゆるされるやつなのかな」と思わず口にするとイケるイケる、とSさんから返ってきた。Sさんは穴の入口に向かって歩いていく。あおいも意を決してついていく。荷物は簡単なリュックだけだった。
 
Sさん、ここ来た事あるんですか?
いや、初めてやで、友達にこんなんあるでって聞いただけや。
 
その割にはSさんの足取りは自信たっぷりに見えた。
 
あおいの方は恐る恐るの気分で穴の入り口に立つ。懐中電灯をリュックから取り出して前方を照らす。それなりに気分は高まってくる。
洞窟は最初こそ天井も高かったが、ほどなく行き止まりのように狭くなった。通常営業ではここから先は立ち入りできないだろう。幸いだかどうだか今は通常営業時間ではなかった。
ここからやな。Sさんが自分の懐中電灯でその先の狭い流れを探りあてていた。
狭い。ほんとに大丈夫ですか、ここ。あおいはまだSさんよりは用心深かった。いけるで。Sさんはあっさりとそこを進もうとする。ここまできたら戻る訳にもいかないのであおいも後ろを屈みながら付いていく。次第に天井が低くなる。低くなるにつれ気持ちがハイになってくるのがわかる。なんか気分高まりますねえ探検みたい。やろ?せやねん。そこからは水に半分浸かりながら匍匐前進しないといけないような水路があったり、不意に開けた場所に出たりした。違う状況に出くわすたびに二人でわーおーと奇声をあげる。なんというんだ、鍾乳洞ハイか。
 
どれくらい時間が経ったのかもう分からなかった。腰掛けることのできる場所で休憩した。試しに灯りを消すと、真っ暗だった。どこからも光が入ってこない。屋外ならどんなに暗くても次第に目が慣れて多少は周りの様子もわかってくるが、ここは鍾乳洞の深部だ。いくら時間が経っても目が慣れるということはなかった。懐中電灯を再び点ける。
帰ろか。と先に言ったのは今回の主導権を持つSさんだ。さすがにこれ以上の深入りは危険を感じた。ここまで進む途中で目印をつけたわけでもないのに営業入り口まではスムーズに戻ることができた。それほどは複雑に分岐していなかったのだろう、と思い返す。

外に出ると小雨が降っていた。Sさんもあおいもレインコートを用意していて、それを着てバイクに乗り、来た時と同じ道を南下した。辺りが白々と明けてくるのが楽しかった。大津に入るあたりの信号待ちであおいはSさんに、お腹減りません?なんか食べましょうよ、と話しかけた。おおそうやな、どっかええとこあるかな、と探しながらバイクを進めると、小さなドライブインらしい終夜営業の食堂が目に入った。

あそこにしよか、と店の前にバイクを止めてレインコートを脱いで自分たちのなりを確かめると、泥だらけだった。あ、これはさすがに店に迷惑かと躊躇したがSさんはずかずかと入店した。あおいは店員の女性に一応アイコンタクトを取り、すみません、と気持ちを届けた。幸いビニールの、汚れても拭き取りやすい椅子だった。定食を二つ頼みお腹を満たし、枚方を目指す。下宿に着くと雨は止んでいて夜もすっかり明けていた。

玄関前の狭い自転車置き場にバイクを止めると、Sさんは、ほな寝るわ、と自室に上がっていった。あおいもおやすみなさい、お疲れさまです、と一階の自分の部屋に入り、服を全部脱ぎ捨て、体を軽く拭いてパジャマに着替えて布団に寝転がったが、思ったとおり興奮してゴロゴロするばかりで寝付けなかった。結局昼前には起き出して、さっき脱ぎ捨てた服を全部、共同使用の洗濯機に放り込んだ。何度回しても黄土色の水が透明にならなかった。夕方近くになってSさんは部屋から出てきた。

お、あおい早いな。
あ、お疲れさまです。

とあおいは言った。

Sさんはその後淡路島かどこかの高校の英語教員に採用されたといって卒業していった。あおいはSさんが教職課程を履修していたことも知らなかった。


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