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LET IT BE / 手紙


一時期、ビートルズを聴かない、というか意識的に避けていた時があった。理由は、機会があればまた話そうと思うけれど、その期間は数年続いていた。

小学校の頃、6学年上の兄がカセットテープでHey, Jude を聴いていたのがきっかけでぼくも聞き始めた。その年齢から数えるとファン歴は山谷ありつつも長い。ちなみにぼくが生まれたのは、彼らが来日し武道館でのコンサートで多くの日本人を熱狂させた年だ。だからぼくがその音楽を聞き始めた時にはすでに過去のバンドになっていた。

中学生になり、高校、大学と洋楽を中心に音楽の興味を広げていった。その分、熱心にビートルズを聴かない時も多くなっていった。

小学校からのその数年がぼくにとってビートルズの一次ブームだったとすれば、遠ざける直前は2回目か3回目のブームだった。中期から後期のものを中心にCDを何枚か持っていたが、全て売り払った。思ったほどたいした金額にはならなかったが。

彼らの楽曲には当然テレビやラジオでよく使われる作品もあるが、それでもぼくは頑なに彼らの音楽が耳に入るのを避けていた。

その禁を解いたのは、2019年の晩秋だった。

その数年前から認知症を患い、その後身体的にも弱ってしまい施設に入っていた母が、極端に食事を口に入れなくなった、と兄から電話があった。今すぐどうとかはないぞ、と兄は教えてくれたが、その次の週末には新幹線に乗って妻と見舞いに行った。最寄り駅まで兄夫婦に車で迎えに来てもらった。

穏やかによく晴れた秋の一日だったのを覚えている。

実家からもそう遠くはない郊外のその施設に行くと、車椅子に乗った母が、スタッフに押されて玄関までやってきて、ぼくたち4人と母はその横にある狭い面会室に入った。

母は、家に帰りたい、と深刻な表情で訴えるように繰り返した。

義理の姉が、

おかあさん、ちゃんと食べて元気にならんと帰れんよ、ちゃんと食べたら帰れるからしっかり食べなよ

と言い慣れたふうな口調で説得していた。兄からぼくに連絡があってからも何度も来ているのだろう。

あまりに帰りたいということから話が進まないので、試しにぼくが誰だかわかるか、と母に尋ねてみると、下の名前を言うことができていたので、少しだけ安堵した。

部屋の隅にいる妻の目が潤んでいるのが見えた。

すっきりしない気持ちのまま、施設に母を残し、ぼくたちはその場をあとにした。

まあ、今すぐにどうのこうのは無いだろう、と兄は苦笑いをしながら駐車場の車までぼくの前を歩いていた。ぼくは全てを兄たちに任せっきりにしていて申し訳ない気持ちもありつつ、この先しばらくは見舞いに来る頻度を増やさないと、と考えていた。

その日はそのまま兄の家に行った。元々の実家は新しく建て替えてあったから本当の実家とは呼びにくい。午後の柔らかな陽光が差し込むリビングのテレビでは、天皇の即位祝賀パレードの様子が中継されていた。

11月ともなると、早朝のノンの散歩の時間はまだ夜のように真っ暗だ。郊外の、しかも一級河川が自宅のすぐそばを流れているこのあたりは、邪魔な灯りもまばらで、星もよく見える。

そんな中歩きながら、母のこと、翌年の春には環境が変わることが決まっていた娘夫婦と息子のことなどがグルグルと思考回路を堂々巡りしていた。当然それはぼくら夫婦にも大きな変化となる。いくつもの事柄が身の回りで起こりつつあって、頭の中を整理したかった。

ふと、鼻歌を歌いたくなって出てきたのが、ビートルズのアルバム『Let It Be』の1曲目だった。数年遠ざけていたとはいえ、それまでは何度も聴いていたアルバムで、歌詞はうろ覚えでも旋律はスラスラと頭の中を流れていく。

ぼくはもう諦めてメロディーが浮かぶままに曲順を追っていった。

アナログ盤では、A面6曲目のLET IT BE は、比較的歌詞を覚えている曲だった。ポール・マッカートニーによるピアノのイントロが静かに響く。

あやふやながらも英語の歌詞を歌ってみる。

自分が困難な時の中にいると、マザー・メアリーがやって来て、ぼくに知恵の言葉を語りかけてくれる

なすがままになさい、と

            言葉は続く

なすがままになさい
流れのままになさい
そこに答えはあるでしょう

そこまで頭の中で歌っていたら、不意に涙が溢れてきて止まらなくなった。

そこってどこだ。

そのままにすることが答えなのか

そのままにした先に何か答えが待ってくれているのか

あるとすればそれはどんな答えなんだ

ノンが何事かと震える声で歌うぼくをちらりと見上げていた。

もういいや、CDを買うことにした。

見舞いに行ってからちょうど一月が経った12月の土曜日、夕食を前にしてリビングで寛いでいると、横に置いてあるぼくのスマートフォンが鳴った。兄の名前が表示されていた。なんとなく嫌な予感がした。通話ボタンをタップして、聞こえてきたのは、ぼくとは違っていつも気丈な兄の、初めて聞く涙声だった。

話し終えて急いでスマートフォンで新幹線の時間を調べた。なんとか間に合うかもというギリギリの時間だった。慌てて色々なものを鞄に詰め込んだ。兄が、もうだめかもしれない、と言っていたので喪服も荷物にいれた。もしも着ないことになっても、これくらいなら笑い話にしてもいいだろう、と思ったのだ。妻と岡山発、名古屋止まりの最終ののぞみになんとか滑り込んだ。離れて暮らす娘と息子には、妻が連絡をしていた。深夜に近い自由席は、名古屋止まりでもあるからか空いていて、二人席を確保できた。でも落ち着かないぼくは何度も席を立ち、デッキの窓から灯りの疎らな外の景色を焦点の合わない目で眺めていた。

Let it be, let it be, let it be, let it be

There will be an answer, let it be

と淡々と何度も口ずさんだ。

名古屋駅で在来線に乗り換え、20分ほど揺られ、降りた駅のロータリーまで迎えに来てくれた義姉の車に乗る。そこからほど近い、新しい大きな病院に着くと、専用駐車場に車を止め、3人揃って歩いて夜間入り口から建物の中に入った。

迷路のような白い通路を歩く、義姉の後ろ姿を追いかけながら何度も何度も角を曲がり、エレベーターに乗って何階かで降りた。

病室に入ると、ベッドの上で母が医療機器に繋がれていた。電子音がやや不規則に鳴っていた。

母に近付こうと奥に進むと、兄か姪か甥か、判別すらつかない声が、今ドアが開くほんの少し前までは意識があったんだよ、と言った。たぶん姪だ。

ぼくは枕元でしゃがみこみ、母の耳元で、幼い頃に呼んでいたように、『かあちゃん』と声を絞り出した。少し時間をおいてもう一度。

電子音の間隔が時間を追うごとに長くなる。

明け方が来る前に、機器が全て外され、医師が時刻を告げた。

いつかどこかで聞いたことがある。聴覚は最期まで残る、と。ぼくの声は母の聴覚に届いてくれただろうか。


『手紙』

母へ
病室でぼくの声は聞こえましたか。
みんなで手紙を書こうと言われたけれど、今は胸がいっぱいで書けそうにありません。
いつかまた心の中で話そうと思います。
また会えると思います。
一応長生きはしたいと思っていますが。

それまで元気でいてください。

答え合わせは、まだ当分先だと思う。





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