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武田作品解説シリーズ1「庭園のソネット」

  • これは、私の作品を広く知ってもらうためのものではありません。私の詩は、公開していない作品のほうが多いのですが、たまにネット上に挙げたり製本して売ったりしています。そのような作品は不特定多数の方々に読まれるわけですが、その際、できる限り正確に読んでいただくための(つまりは誤解なく読んで頂くための)指針としてこれを作成することにしました。また、私の作品の多くは非常に危険なものでもあります。読み方を間違えると精神異常をきたしたり、日常生活が送れなくなってしまう可能性があります。そのような事態を未然に防ぐためにも、この試みは役に立つと思っています。


  1. 庭園のソネット(第一部:2011年、第二部:2013年)

 定型詩の形式を持つこの一連の詩群は、一貫して「あなた」へ贈る詩として作られている。第一部は脚韻こそないが韻律を持ち、第二部は日本語詩としてはかなり珍しい脚韻を持った詩群となっている。
 作中にたびたび登場する「あなた」とはいったい何者であるかについては様々に言われてきたが、決して肉体を持って地上を生きる存在ではなく、はるかはるか高みの存在である。よって「庭園のソネット」は恋愛詩ではなく、神秘詩であり、ひとつの瞑想詩だと言える。
 この詩に限らず、私の詩は単純な思考的読み方を拒絶する。もちろん、思考的な読み方をしてはならないというわけではないが、それによって私の詩を真に理解することはできない。だがこれが詩というものである。詩の本質は思考で捉えられるものではなく、ただ人間存在の意志のみがその全体を捉えることができる。私の詩において思考の力は、ただイメージを構築するためにのみ使ってもらいたい。詩として表現されている言葉の連なりを、冷たい概念ではなく、生き生きとした流動的イメージとして眼前に思い描いてほしい。次にそこから生まれる感情に没頭し、ひたすら没頭し、その感情を全身に、手足の先にまで広げることで、体験をしてほしい。詩の体験、そこに詩として存在している内容の体験。この時はじめて、詩を読んだ、と言うことができる。詩の体験は小説の追体験とは違う。生々しい自らの体験であり、行為なき意志である。
 とはいえ、「庭園のソネット」の完成度は、一部も二部もそう高いものではない。もちろん私自身の未熟さである。これらの詩群では、詩の体験に必要なイメージの構築を正確に行うことが難しいものもある。象徴的な技法に傾きすぎているところもあり、それらをひとつひとつ解釈していくならば、ある程度私の想定した「体験」にまでたどり着くことができるかもしれないが、詩としての生命力はそんなに強いわけではない。だとしても、私は「庭園のソネット」を駄作だとは思っていない。第一部はまだ私本来の個性があまり発揮されていないし、第二部は韻律にこだわりすぎて硬くなりすぎている。それでも「庭園のソネット」に流れる私の詩的直観は、とても薄暗いものだとしても、超感覚的なものを予感しているように思う。どちらかというと、正確な「ソネット形式」ではないが第一部のほうが詩として完成していると言えるかもしれない。第一部は柔らかさと敬虔さに満ち、第二部は力強さがある。
「庭園のソネット」にはまだ続きがある。本当は第三部を作る予定であったが、この一連のテーマで描きたいものを定型詩で作るのは限界だと思い、中断した。だが「あなた」への私の思いが尽きることはない。私が「あなた」との繋がりを感じる限り、この詩が終わることはない。



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