■第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】の日本語表現の改正を提案します

■第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】の日本語表現の改正を提案します
 現行の日本語条文(英文の翻訳)には誤りがあるとずっと考えてきました。憲法記念日(5/3)から二日経過しました。ずっと遠慮してきましたが、私の考えを公開することとしました。
 ※日英文の憲法 http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail_main?id=174
 ※用語の注意: 権利 right、権能 power/authority、権限 mandate/competence は
 意味が異なります。参考→ https://dokugaku.info/kotu/hou-10.htm
   → https://www.zukairoppo.com/glossary-kenri#:~:text=%E4%B8%80%E5%AE%9A%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E8%AB%8B%E6%B1%82,%E6%B3%95%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%88%B6%E9%99%90%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
  日本国憲法日本文での権利/権能/権限の出現数は 22/2/8回。
  ただし、権能と権限は厳密に区別されてませんので大切な
  ことは権能/権限と権利の区別だと思います。

-1項:
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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英文を読んだら明瞭だと確信されることは、"国際紛争を解決する手段として"は、"武力による威嚇又は武力の行使"のみにかかっていること。
日本語文だと、"国権の発動たる戦争"にもかかっているように読めてしまいます。もしも、"国際紛争を解決する手段として"が両方にかかるならば、
the threat or use of force as means of settling international disputes.
→ the threat or use of force, as means of settling international disputes.
と、force のあとに "," が追加されねばならないと思います。法律とか条約文というものは、コンマ","の位置が極めて重要。当時、英文から訳して日本語正文を作成した方は、意図的な意味変更ではないとしても、残念なミスをしたのだと思います。今日に至るまで、"国際紛争を解決する手段として"が両方にかかると理解している国民が大多数ではないでしょうか?
 たいして違いないと考えることができなくもありませんが、もっと良い訳文を検討していきます。文言を変えることは憲法改正となるわけで、急いで改正しようと主張するわけではありません。
 

▼日本国民が永久に放棄するのは二つ
1) war as a sovereign right of the nation
 ●現憲法の文言: "国権の発動たる戦争"
 ★訂正案→"主権者国民の権利としての戦争"
訂正の第一理由。現行文では国権の国は国家と誤解されかねません。憲法は国民が主権者であると明記しております。国countryの構成要素である国家stateは国民の道具に過ぎません。すなわち、国家(行政府、司法府、立法府)にはそもそも戦争する権利はないのであり、もっと詳しく言いますと、国家そのものにはいかなる権利もありません。主権者国民が天皇と国家(機構)に権限や権能を憲法という明文規定で与えているのであります。
 国民は憲法により国会に法律を制定する権能を与えてますが、その権能は憲法に違反しないという明確な限定条件付きです。国会には法律を制定する「権利」ではなく「権能」を与えているのです。
 なお、国民/憲法は天皇にはいかなる権利も付与してません。
 第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
Article 6. The Emperor shall appoint the Prime Minister as designated by the Diet.
 天皇には大臣を任命する権能(権限)は一切なく、shall という法律用語にあるように
 国会が指名したとおりに、形式的に任命"しなければならない"のです。正しく、任命しなければならないとした方がいいと思います。
 本題に戻ります。
 諸国民 nations にはそれぞれ主権があり、戦争をする権利はどの国民にもあるというのが、今日に至るまでの人類の常識だと思います。だからこそ、昔々の不戦条約のようなことで、諸国民の戦争する権利を抑制するようなことがなされ、国連憲章でも自由に戦争できないようにしているわけです。
 諸国民には戦争する権利があるという意味を極端に表現しますと、どの国民もいかなる理由であれ、すなわち目的が他国の自然資源強奪であれ、領土問題の武力解決であれ、民族対民族の互いの憎しみが根にあれ、戦争をする権利がある!
 "主権者国民の権利としての戦争"の放棄とは、いかなる理由・動機・目的であれ、日本国民は戦争をしないとの宣言なのです。ここまで読んだ方の多くは"当たり前だ、その意味に理解してきた、今更いわれるまでもない"と感じることでしょうが、もっと深い意義があると思います。
 もしも、9条1項後段の"the threat or use of force as means of settling international disputes"が欠如していてもいいと私は思います。後段があるために、かえって意味があやふやになっているのではないでしょうか。
 欠如していてもいいとの意味はこうです。憲法で国民が戦争する権利を放棄しているのであるから、国際紛争の解決のために日本国民がその道具である国家を用いて、戦争を「開始」することは否定されているからです。欠如していてもいいのですが、なぜわざわざ、「国際紛争解決手段としての武力による威嚇と行使」も放棄するのか? 武力そのものは警察とか沿岸警備隊なども有しており、武力は常備軍のみが保有しているわけではありません。警察や海上保安庁による武力による威嚇やその行使すら、国際紛争解決の手段としては否定したのだと思います。
 例えば、尖閣諸島という日本領土に中国の公務員や私人が上陸した時、国民の道具である海上保安庁の職員は威嚇したり発砲してはならないということ。ということで、大いに追加には意味があると思われます。

2) the threat or use of force as means of settling international disputes
 ●現憲法の文言: "武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては"
 ★訂正案→ "国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使"
 "use of force , as means"ではなく、"use of force as means"となっているのだから、戦争放棄はかからないわけです。別々に放棄を規定しているのです。

▼憲法9条第一項の訂正案
"日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、主権者国民の権利としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使を、永久に放棄する。"

 いかがでしょう。このようにするとスッキリしませんか?

次、前述のような精確な表現にしないと、問題が考えられるのです。解説します。

a) "国際紛争を解決する手段"ではない戦争は禁止されてないと解することが理屈では可能
 言い換えると、ある一国内における内戦やある一国内における政府による同国民迫害に、日本国が軍事力で介入することが可能だと解されてしまう。

 "国際紛争を解決する手段"ではない戦争として考えられるのは、例えばミャンマーの軍事政権によるミャンマー国民の迫害に対して、同国民を助けるために、米国などの諸国連合軍に自衛隊も参加すること。ミャンマーという国countryではなく、ミャンマー国軍(軍事政権)に戦争をしかけるようなこと。このような介入を正当化する理屈はいくらでも思いつきますし、国連がそのようなことを認める可能性は理論的にあります(もちろん、ロシアも中国も拒否権発動しないときのみ)。現実的に十分にあり得るとも思います。
 ミャンマー国の軍事政権は国民に対して戦争をしかけてます。同国国民は civil disobedience 市民的不服従 (最も有名なのはガンジーの非暴力の抵抗。ベトナム戦争反対でもそのようなことが行われました)を行使してます。同国民は外国の軍事的介入を全く求めてませんが、米国等が美名で、つまり自由と民主主義という一般抽象的理念をかざして、国連軍を形成することは国連憲章そのものが禁止しているわけではありません。国際法的に、朝鮮戦争は国連軍対北朝鮮の戦争でした。
 もしも、ミャンマー軍事政権に対して国連軍が武力行使する事態となっても、日本は戦争に参加できない。米国はもとより諸国が求めても日本は加わることが憲法の禁忌により参戦できないわけです。なので、日本は調停役として機能することが可能です。国民の意思が調停を決断したら、道具である日本政府はロシア・中国政府と共にそうすることができるのです。
 例えば、国連軍がミャンマー軍事政権に最後通牒 ultimatum を期限と条件付きで発したとします。ミャンマー軍事政権は武力では絶対に国連軍に勝てないとわかっているものの、面子で抵抗する気持ちとなるでしょう。軍事政権は国民を盾にして、つまり人質として、国軍基地の中と周囲に国民の強制収容所を作り、国連軍による軍事基地攻撃が直ちに無辜のミャンマー国民の犠牲となる状況を作り出すことに躊躇はしないでしょう。そんな危機的事態が現実となったその時、米国連邦政府は軍産複合体によりかなりの程度は支配されているものの、国連軍司令官/米国大統領等が戦闘開始命令とか宣戦布告を簡単に発することはできないでしょう。決定的その時に、日本/ロシア/中国はそれぞれ思惑が異なるものの、話し合いによる解決を呼びかける権威を有することとなります。軍事政権も国連軍(米国)も、調停を受けるしかないと思います。いうまでもなく、ロシア及び中国政府と日本政府の水面下での顕密な調整が大前提であり、日本政府にはそのような能力が不足しているので、なかなかそうならないとは思います。それでも、日本だけは国連軍に参加しないことが、憲法で明々白々ならば、偉大な役割を果たすことがその気になればできるのです。
 以上のような理由で、英文の意味そのままに日本語文を正すべきだと考えます。

以下は、書きかけの蛇足の考察ですので、よほどお暇で興味ある方のみお読みください。

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b) "国際紛争を解決する手段"ではない武力による威嚇又は武力行使は禁じられてないと解せる
 9条1項は「国民の権利としての戦争」及び「"国際紛争を解決する手段"としての武力による威嚇又は武力行使」の二つを永遠に禁止しているわけですが、日本語ではそうではなくして、"国際紛争を解決する手段"が戦争にもかかっているので、いろいろと問題ありと指摘してきました。
 では、<"国際紛争を解決する手段"ではない武力による威嚇又は武力行使>としてどんなことが考えられるのか?
 他国による軍事力行使を抑止・撃退するために自衛隊があります。原発反対、辺野古基地建設反対など、国策に反対する人々を、日本国中央政府は警察/自衛隊の情報保全隊/民間企業等を用いて弾圧したり監視したりしてきています。検察も裁判所も中央政府の意のままに、弾圧に手を貸してきました。けども、さすがに反対者の非暴力の市民的不服従運動に対して、自衛隊の軍事力は行使されてきてません。自衛隊法からしてできないのみか、自民党内閣は自衛隊をもちいて反対派を弾圧したいけども、道徳的にすることができないのだと思います。
 話を転じます。
 自民党内閣は憲法違反の法律を成立させたし、法律に違反して学術会議が指名した候補者のうち6人を任命から除外しました。
 天皇は国会が指名した総理大臣等を任命「しなければならない」のであり、天皇には任命するかしないかの判断をする権能が与えられてなく、天皇には任命する権限があり、その権限を行使することは憲法が厳しく命じる義務です。もしも天皇が、例えば菅義偉を心底から嫌い、憲法に違反して任命しないならば、菅氏は総理大臣になれないのか? 任命しないことは想定外の事態ですが、憲法の明文規定からして、天皇が任命しないことは憲法違反なので、菅の総理大臣就任は当然だと思います。任命しないことを理由に天皇を解任するような規定はないので、天皇はそのまま地位を保ことでしょうけども。
 学術会議が指名したうちの6名が総理から任命されなかったわけですが、粛々と就任していいと思います。天皇が菅を任命しなかったとしても就任して当然のごとく。
 あえて脱線しましたが、話を戻します。
 今日までの自民党政権の在り方をみていると、自衛隊を用いて反対派を武力で威嚇したり、現実に反対派に発砲するようなことがありえなくないと心配します。このような心配があるので、9条2項で、"前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない"としたわけではないと思いますけども。
 蛇足の考察でした。

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