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「怒り」という感情について。


怒りという感情について。
わたしはめちゃめちゃ怒りを抱く。というか、怒りだけではなくて、シンプルに喜怒哀楽の全ての感情が強烈で激しい。
もちろん生きてきた中でそれを適度にジャケットの裏側に隠したり、ポケットの中に忍ばせたり、そういう技は覚えたけれど、それは根本的に怒りという感情そのものを消し去ることとは異なっている。

最近読んだ小説に、「怒り」という感情が消えてゆく世界の話があった。「怒り」という感情自体を持つ人物が減っていって、わたしたちが「怒るべき」と思う場面でもにこやかに冷静さを失わない。というか、何も思わない。怒りに当たる語は悲しみで代用され、怒っている人に対して人は「きみは悲しいんだね」と言う。そんな世界で主人公は、「怒り」を持つ唯一仲間に連絡をする。で、その相手と愚痴りあって、怒って気持ちを吐き出して、その過程に病みつきになってゆく…。そんな話。

でも、読んでいてひとつ思ったのは、わたしは「怒り」と「怒る」は違うんじゃないかと思う。だって、わたしはめちゃめちゃ怒りを抱えるけれど、「怒る」ことに関しては大の苦手だからだ。「怒り」を抱えても、それをぶつけるという行為は暴力だと思ってしまうし、めちゃめちゃ嫌なやつでも情状酌量してしまい、ついその場では我慢してしまう。

というかわたしはそもそも自分の怒りにめちゃめちゃ鈍くて、その感情を怒りだと認識するまでにかなり時間がかかる。人になにかを言われて、それが心をちりっと引っ掻いて、でもその場ではそんな傷は見ないフリをして話を進めてしまう(あるいは、黙り込む)(黙り込んでる場合は結構怒り始めている)。
で、一人になってからずっと、この小さな痛みの正体はなんだろうって考え続けて、数時間経ってやっと「あ、これは怒りなのか」と気づく。そして気づいたらそれはあっという間に激情と化して、わたしの心のすべてをあっという間に攫ってゆく。でもそのときには目の前に怒るべき対象はいないから、その人にその感情をぶつけることはできなくて、どこにもゆけない怒りだけが、マグマのように心の中に溜まってゆく。

そのマグマが溢れたときに、わたしはなにかしら文章を書いたりするのだろう。あるいは、小説や映画がその煮え立つマグマを掬ってくれることもあるし、わけもない涙として身体から自然と排出される瞬間もある。だけど、たまにはちゃんと怒ってみたい。

その小説で主人公は、怒ることは気持ちいい、と言っていた。いいなァ、わたしはうまく怒れないから、怒りを抱えるのがひたすらに気持ち悪い。熱くてどろどろとしたマグマに喉のあたりを侵食されるのに、うまく吐くことはできないの。それで心に溜まった自分の重くて熱い感情に負けて、たまに外に出られなくなってしまう。

でも、こういう人って意外と多いのかもしれない。大好きな漫画のタイトルにも「怒りが大地震を引き起こすんだから怖いよね」みたいなのがあったわけだし。

わたしはいつも海を見ると、世界中の悲しみとか切なさが波となって砂浜を攫っていくのかもしれないな、なんて思うのだけど、もしかしたら、世界中の怒りは地球がプレートを押す力になっているのかもしれない。ハァ、怒りは怖い。大地震が起こる前に、きちんと発散してうまく怒れるようになりたい。

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