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<歌と水の街>血と灰の熱 ——リース・リストリイの喀血

「歌と水の街」は、大陸の端にある一大芸能都市である。
 その中枢をなす歌劇団にあって、リース・リストリイは、中心的な存在ではなかった。
 歌い子の潮時は二十五歳までと言われる中、彼女は今年、二十八歳になる。
 最年長のリースの歌は、今なお最上級ではない。しかし、美貌は優れている。

 公演の後、私は歌劇場支配人の執務室に呼び出された。
「リース。エドワーズ氏とは良好なのだな」
 エドは私のパトロンだ。三十五歳の独身。すべからくパトロンを持つ歌い子の中では極めて異例なことに、彼は私に手も触れないが。
「彼から、君に次回公演のソロを任せろと要請が来た」
 私は、足がすくんだ。歌劇団の誰もが目指し、そして夢及ばずに破れていく、最トップの座だ。
「そんな、こと……」
「多額の融資と共にだ。君の歌は、他の歌い子の見本といえる出来ではないが。ただ、君が誰より努力してきたのは皆が知るところではある。君に、その気があるのなら」

 寮の個室に戻ると、私は大きく嘆息した。
 当然、不安は大きかった。
 確かに私は誰より努力してきた。他の歌い子が休み、遊び、パトロンと出掛けている最中も、私は練習室でひたすら歌い続けた。
 しかしそれでも、私は歌の力だけで劇場に出ている訳ではないのだ。顔で末席を買ったという陰口が、的はずれでないことは自分で分かっている。
 次期公演までは、あと一月もない。

 それからは必死だった。
 食事は栄養補給のみに努め、喉を守る強い薬を副作用に耐えて飲み、仮眠以上の睡眠を取らずに一層練習に明け暮れた。
 毎日のステージも、控えの歌い子に代わってもらった。来月のソロの方が遥かに大切だった。
 年齢のこともある。歌劇団内で煙たがられてもいる。恐らくこれが、最初で最後の主役だろう。
 言わば、団からの餞なのだ。ならば、最高の形で成就させてみせる。
 私はエドを含め、男性に触れられたことがない。駆け出しの頃、好きになった人はいた。本当に好きだった。告白をされた時は、夢ではないかと泣いた。しかしそれでも断り、歌に全てを捧げた。
 女として男たちに磨かれ、彼女らの求める幸福を手にしていく同僚を見ながら、私はただ歳だけを取り続けた。
 それくらいの犠牲を屠さなければ、本物の才能とは渡り合えないと分かっていた。
 これは私の、最後の意地だ。

 二週間もすると、睡眠不足と疲労で、嗅覚と味覚が極端に鈍化した。紅茶を淹れる意味がなくなり、白湯にした。
 目眩が増え、頭痛と腹痛が重くなり、耳鳴りも酷い。
 しかし。
 本来のソロは、現公演のメインを歌っている、メリッサ・モアという十八歳の天才だ。彼女の役を奪うからには、それくらいの苦労は何とも思わない。

 私がソロを務める公演の当日がやって来た。
 異変に気づいたのは、水とスープだけの昼食を終えた時だった。
 劇場の周りの人通りが少ない。
 そして、大きな声が響いてきた。
「中央広場だ! メリッサが、ゲリラ公演をやってる!」
 頭を殴られたような衝撃だった。
 気づいた時には、広場に向かって駆け出していた。
 認めていなかったのだ、メリッサは。
 顔だけの女が、歌劇団の主役を務めるなどと。
「私だって……努力したのよ。私だって、やれる……」
 呟きながら駆ける。
 広場は満杯だった。
 私が劇場に集められるであろう人数を遥かに上回っている。
 メリッサは壇上に立ち、今まさに、大きく息を吸い込んだところだった。
 そして。
 放たれた歌声は、一瞬でその場の全員を魅了した。
 演目は、今日これから私が歌うのと同じ英雄曲だった。
 音響設備も何もない野外で、メリッサの声はしかし、弾けながら膨らむ。
 クラップや嬌声までも巻き込み、飲み込んで、倍加させて打ち放つような歌声。
 胸を高鳴らせ、高揚が爆ぜる、稀代の声だ。
 歓喜する人々の熱狂の中、私はただ一人打ちのめされて、両膝と両肘を地面についた。
 涙がぼろぼろと落ちる。
 見ろ。
 見ろ。
 見ろ。
 聴け。
 あれが本物だ。あれが才能だ。
 努力では決して手に入らない、産まれた時に定められていた運命の形。
 徒労でしかなかった私の戦い。
 この後に、私が劇場で歌う?
 質の悪い冗談だ。悲劇に過ぎる。
 いや、喜劇か。
 私は狂ったように笑い出した。
 あまりに激しく笑ったため、限界間際だった喉が破れて血の混じった咳が出た。
 これでは歌えない。
 よし、死のう。
 私は広場に背を向けて駆け出した。
 その時、後ろからメリッサが私を呼んだ。
「それで歌うんだよォ!」
 それでかろうじて私は、川ではなく劇場へ足を向けた。
 死ぬのは、歌ってからだった。
 破れた喉で。敗北者の魂で。
 初めて、歌を、誰かに届けられるかもしれないと思った。


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